2012年9月5日水曜日

我が子の


三十七年の夏、東圃《とうほ》君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。しかるに何ぞ図《はか》らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己《おの》が次女を死なせて、かえって君より慰めらるる身となった。
 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲《かなしみ》を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立《しゅったつ》の朝、君は篋底《きょうてい》を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記《しゅうえんき》なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡《すべ》て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能《あた》わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。
 余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪《た》えなかった、特にこの悲が年と共に消えゆくかと思えば、いかにもあさましく、せめて後の思出にもと、死にし子の面影を書き残した、しかして直《ただち》にこれを東圃君に送って一言を求めた。当時真に余の心を知ってくれる人は、君の外にないと思うたのである。しかるに何ぞ図らん、君は余よりも前に、同じ境遇に会うて、同じ事を企てられたのである。余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李《こうり》の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳《つまびら》かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法《じょうほう》なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同一の行路をたどるごとくに、余の心は君の心の如くに動いたのである。
 回顧すれば、余の十四歳の頃であった、余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある、余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた。稚心《おさなごころ》にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、心から思うたことを今も記憶している。近くは三十七年の夏、悲惨なる旅順の戦に、ただ一人の弟は敵塁《てきるい》深く屍を委《まか》して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消失《きえう》せないのに、また己《おの》が愛児の一人を失うようになった。骨肉の情いずれ疎《そ》なるはなけれども、特に親子の情は格別である、余はこの度《たび》生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。君の亡くされたのは君の初子《はつご》であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情|濃《こま》やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、氏はこれに答えて“How can I love another Child? What I want is Sonia.”といったということがある。親の愛は実に純粋である、その間|一毫《いちごう》も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤《おもかげ》を思い出《い》ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇《きかつ》は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡《すべ》ての傷を癒やすというのは自然の恵《めぐみ》であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵《きず》や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉《いしゃ》である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
 死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう、しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあることを悟った。カントがいった如く、物には皆値段がある、独り人間は値段以上である、目的|其者《そのもの》である。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。世の中に人間ほど貴い者はない、物はこれを償《つぐな》うことが出来るが、いかにつまらぬ人間でも、一のスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。しかしてこの人間の絶対的価値ということが、己が子を失うたような場合に最も痛切に感ぜられるのである。ゲーテがその子を失った時“Over the dead”というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固《もと》より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない、学問も事業も究竟《くっきょう》の目的は人情のためにするのである。しかして人情といえば、たとい小なりとはいえ、親が子を思うより痛切なるものはなかろう。徒らに高く構えて人情自然の美を忘るる者はかえってその性情の卑しきを示すに過ぎない、「征馬不[#レ]前人不[#レ]語、金州城外立[#二]斜陽[#一]」の句ありていよいよ乃木将軍の人格が仰がれるのである。
 とにかく余は今度我子の果敢《はか》なき死ということによりて、多大の教訓を得た。名利《みょうり》を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓《いっしゃく》の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡《すべ》ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処《ここ》には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。
 物|窮《きわ》まれば転ず、親が子の死を悲しむという如きやる瀬なき悲哀悔恨は、おのずから人心を転じて、何らかの慰安の途を求めしめるのである。夏草の上に置ける朝露よりも哀れ果敢なき一生を送った我子の身の上を思えば、いかにも断腸の思いがする。しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。永久なる時の上から考えて見れば、何だか滑稽にも見える。生れて何らの発展もなさず、何らの記憶も遺さず、死んだとて悲んでくれる人だにないと思えば、哀れといえばまことに哀れである。しかしいかなる英雄も赤子も死に対しては何らの意味も有《も》たない、神の前にて凡て同一の霊魂である。オルカニヤの作といい伝えている画に、死の神が老若男女、あらゆる種々の人を捕え来りて、帝王も乞食もみな一堆《いったい》の中に積み重ねているのがある、栄辱《えいじょく》得失もここに至っては一場の夢に過ぎない。また世の中の幸福という点より見ても、生延びたのが幸であったろうか、死んだのが幸であったろうか、生きていたならば幸であったろうというのは親の欲望である、運命の秘密は我々には分らない。特に高潔なる精神的要求より離れて、単に幸福ということから考えて見たら、凡《すべ》て人生はさほど慕うべきものかどうかも疑問である。一方より見れば、生れて何らの人生の罪悪にも汚れず、何らの人生の悲哀をも知らず、ただ日々|嬉戯《きぎ》して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、非常に美くしい感じがする、花束を散らしたような詩的一生であったとも思われる。たとえ多くの人に記憶せられ、惜まれずとも、懐かしかった親が心に刻める深き記念、骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う。
 最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。

わが五月


五月は爽快な男児。ぴちぴち若い体じゅうの皮膚を裸で、旗のような髪の毛を風にふき靡《なび》かせつつ、緑の小枝を振り廻し駈けて行く五月。新鮮に充実して浄き官能の輝く五月。
 近い五月は横丁の細道にもある。家の塀について右へ一つ、もう一遍右へ一つ曲ると、そこに五月の慎しい宝が人目にかくれ横わっている。右も生垣、左も生垣、僅か三尺ばかりの小道がそこを貫いているのだが、五月になると、小径は緑の王国だ。高いところに樫の若葉、要の葉、桜、楓、地面に山吹や野茨が叢《むらが》り出て緑の※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ァリエーションをつくる。そこへふっさり幹を斜に空から後期印象派風の柳が豊富な葉を垂らし、快晴の午後二時頃人声もしないその小道を行くと、何と云おう――様々な緑、紅緑、黄緑、碧緑、優しい銀緑色の清純な馨《かん》ばしさ、重さ、燦めきが堆団《マス》となっていちどきに感覚へ溢れて来る。静けさに満ち渡る崇厳――。
   あらたふと青葉若葉の日のひかり

 北方の五月は黄昏《トワイライト》がながい。もう太陽は河の彼方に沈んだ。燦めきのない残光が空中にあって、空を建物を人物の色彩を不思議に鮮かに浮きたたせる。市街は、オランダの陶器絵のように愛らしく美しい。ねっとりした緑の街路樹、急に煉瓦色のこまやかな建物の正面《ファサード》。車道を辷るシトロエンが夢のようなレモン色だ。女の赤い帽子、総ての色調《トーン》を締める黒の男性散策者。
 人は心を何ものかにうばわれたように歩く。……歩く。葉巻の煙、エルムの若葉の香、多くの窓々が五月の夕暮に向って開かれている。
 やがて河から靄が上る。街燈が鉄の支柱の頂で燐を閃めかせ始める。ほんの一とき市民の胸を掠めるぼんやりした哀愁の夜が、高架鉄橋のホイッスラー風な橋桁の間から迫って来た。

 そういう黄昏、一つの池がある。ふちの青草に横わって池を眺めると、水の上に白樺の影が青く白く映っていた。花咲かぬ水蓮も浮いている。白鳥が一羽いる。むこうの丸木橋の下にいたが、こちらへ向いて泳いでいた。眠たい水が鋼色にひろがる。青草に横わって池を眺めると、今は樹間をこめる紫っぽい夕暮の陰翳まで漣とともにひろがり、白鳥ばかり真白に、白樺の投影の裡に伸びた。

和解


    一
 奥の六畳に、私はM―子と火鉢の間に対坐してゐた。晩飯には少し間があるが、晩飯を済したのでは、夜の部の映画を見るのに時間が遅すぎる――ちやうどさう云つた時刻であつた。陽気が春めいて来てから、私は何となく出癖がついてゐた。日に一度くらゐ洋服を著て靴をはいて街へ出てみないと、何か憂鬱であつた。街へ出て見ても別に変つたことはなかつた。どこの町も人と円タクとネオンサインと、それから食糧品、雑貨、出版物、低俗な音楽の氾濫であつた。その日も私は為たい仕事が目の前に山ほど積つてゐるやうで、その癖何一つ為ることがないやうな気がしてゐた。その時T―が、いつもの、私を信じ切つてゐるやうな少し羞《はづ》かしいやうな様子をして部屋の入口に現はれた。そしてつかつかと傍《そば》へ寄つて来た。
「済みませんけれど、一時お宅のアパアトにおいて戴きたいんですが……。家《うち》が見つかるまで。――家を釘づけにされちやつたんで。」彼はさういつて笑つてゐた。
「何うして?」
「それが実に乱暴なんです。壮士が十人も押掛けて来て、お巡《まは》りさんまで加勢して、否応《いやおう》なしに……。」
 私も笑つてるより外なかつたが、困惑した。
「アパアトは一杯だぜ。三階の隅に六畳ばかり畳敷のところはあるけれど、あすこに住ふのは違法なんだから。」
「そこで結構です。小島弁護士も、後で行つて話すから、差当り先生のアパアトへ行くより外ないといふんです。」
「小島君が何うかしてくれさうなもんだね。」
「かうなつては手遅れだといふんです。防禦策は講じてあつたんだけれど、先方の遣口が実に非道いんです。」
「ぢや、まあ……為方がないね。」
 T―は部屋代に相当する金をポケツトから出した。私は再三拒んだが、T―は押返した。私は彼が遣りかけてゐる仕事に、最近聊か助言を与へると共に、費用も出来る範囲で立換へてゐた。二三日前にも見本を地方へ送る郵税が、予想より超過したとかで、私はそれを用立てて一安心してゐるところであつた。T―はそんな仕事の好い材料をもつてゐたけれど、少しばかり金を注ぎこんだところで、物になるか何うかは疑問であつた。彼は又私のヒントで、俳文学の雑誌を発刊する計画も立ててゐた。まあ、何か彼か取りついて行けさうに思へた。私自身最近荒れ放題に荒れてゐた少し許りの裏の空地に、百方工面して貧弱なアパアトを造つたくらゐであつた。世間からおいてきぼりを喰つた、芸術家の晩年の寂しい姿を、自身にまざまざ見せつけられてゐた。この四五年事物が少しはつきり見えるやうな気がした。隠遁や死も悪くはなかつたが、ねばるのも亦よかつた。T―ももう相当の年輩であつたが、今まで余り好い事はなかつた。同じ芸術壇で、私の友人である兄は特異な地位を占めてゐたけれど、T―はその足もとへも寄りつけなかつた。結核で八年間も苦しみ通した最初の細君のことを、私は余り知らなかつたけれど、この前の細君は、三年程前、彼に新しい女が出来かかつた頃、子供の問題などで、よく私のところへ遣つて来たものだが、立派な性格破産者であつたから、T―の結婚生活が幸福である筈もなかつた。五年以来彼は今二十五になる恋人と幸福な同棲生活を続けて来た。遣りかけた仕事が若し巧く行けば、彼はその晩年において、生涯の償ひが取れないとも限らなかつた。それは全く望みのない事でもなかつた。誰もが人の才能や運命に見切りをつけてはならなかつた。
 私はT―の金をM―子に預けた。そしてT―が帰つてから、背広に着かへてM―子と長男の芳夫をつれて外へ出た。
 三人で通りの人通を歩いてゐる、或る銀行の前の、老い朽ちた椎の木蔭の鉄柵のところで、赤靴を磨かせてゐるT―を見た。T―は私達の顔を見て近眼鏡の下で微笑みかけた。
「お出かけ?」
「いや、ちよつと。」
 その儘私たちは通りすぎた。そして三丁目の十字路を突切つて、とある楽器店の前まで来た。東京社交舞踏教習所と書きつけた電燈が、その横の路次にある其のビルデイングの入口に出てゐた。M―子が自身私のパアトナアになるつもりで、最近そこで四五日ダンスを教はつたのが因縁で、私も時々そこへ顔を出して、ステツプの研究をやつたりした。教養のある其処の若いマダムは、体の軽い私を、よく腋の下から持ちあげるやうにして、気さくにステツプを教へてくれた。いつか其のお父さんとも私は話をするやうになつた。
「渡瀬さんは何うなさいました。」お父さんはその令嬢が小さい時分、よく世話になつた医者で、私のダンス仲間である渡瀬ドクトルのことを私に聞いた。
 渡瀬ドクトルは区内の名士であつたが、ダンスの研究にも熱心であつた。
「渡瀬さん困りますよ。肝臓癌になつちまつて。」私は暫く見舞ひを怠つてゐるドクトルのことを思ひ出した。
 ドクトルも最近ここの牀で、マダムと踊つたこともあつたが、善良なこの人達の家庭をよく知つてゐた。彼は医者としてよりも、人として一種ヒイロイツクな人格の持主であつた。最近まであれほど頑健で、時とすると一夜のうちに五十回も立続けに踊つたり、政治批評や恋愛談に興がわくと、夜が白々明けるまで、私の家のストオブの傍で話しに耽つたりしてゐたのに、三月へ入つてから急に顔や手足が鬱金染《うこんぞ》めのやうに真黄色《まつきいろ》になつて来た。私達はストオブのある板敷の部屋や、私の物を書くテイブルの傍などで、屡々豊富なタンゴの新しいステツプを踏んで見せてゐた、肥つた小さい其の姿を、暫らく見ることがなかつた。
 娘夫婦に道楽半分教習所をやらせてゐる彼は少し口元の筋肉をふるはせて、眼鏡ごしに私の顔を見詰めてゐた。
 ちやうどいつも踊つてくれるマダムは風邪をひいたので、出てゐなかつたし、マスタアの顔も見えなかつたので私達は助手の女の人を相手に、一二回踊つてそこを出ると、下の広小路までぶらぶら歩いて、お茶を呑んで帰つて来た。
「T―さん何うしたか知ら。」私は家政をやつてくれてゐるおばさんに聞いた。
「子供さんがアパアトの廊下に遊んでゐましたから、もうお引移りになつたんでせうよ。」
 私は建築中も、一度も見に行かなかつたくらゐで、アパアトの方へ行くのも厭だつたので、その晩は彼を訪ねもしなかつた。

     二
 間《あひだ》一日おいた晩方、私はおばさんからT―君が病気で臥せてゐることを聞いた。
「何んな風?」私はきいた。
「多分風邪だらうといふんですの。突然九度ばかり熱が出たんださうです。先刻奥さんに伺つたんですけれど。」
 五年以来の其の若い細君の噂を、私は子供からも耳にしてゐたし、M―子の仕立物を頼んだりしてゐたので、二三度逢つてゐたおばさんからも、聞いてゐた。二男の友達がダンスを教へたりして、何か恋愛関係でもあつたやうに思はれたが、T―のものになつたのは、それから間もないことらしかつた。兎に角仕立物をしたりして、T―を助けてゐることだけでも、近頃の教養婦人としては、好い傾向だと思つた。
「九度?」私は首をひねつた。
「九度とか四十度とか……ちよつと立話でしたから。」
「医者にかけたか知ら。」
「さあ、そこのところは存じませんけれど。」
「風邪ならいいけれど……。」
 私は他の場合を想像しない訳にいかなかつた。チブスとか肺炎とか……。私はアパアトに十人余りの人達がゐるので、最悪の場合のことも気にしないではゐられなかつた。
「細君に、早速医者に診てもらふやうに言つてくれませんか。」
「さう言ひませう。」
「かういふ時、渡瀬さんが丈夫だといいんだがな。」
「さうですね。」
「しかし浦上さんも、医者としては好いんだ。至急あの人を呼ぶやうに言つて下さい。そして診察の様子を見よう。」
「さう申しておきませう。」
 私は裏へいつて、三階へ上つてみようかと余程さう思つたけれど、逢つたこともない細君に遠慮もあつたし、差当りT―の生活に触れるのも厭だつた。
 切迫した仕事があつたので、その晩はそのままに過ぎた。それにおばさんはルーズな方ぢやないので、医者に診てもらつたに違ひないと思つてゐた。
 明日になつても、私は何か頭脳の底に、不安の影を宿しながらも、その問題にふれる機会もなくて過ぎた。多分感冒だつたので、報告がないのだらうと思つてゐたが、夜、私は外から帰つてくると、急にまた気になりだした。私はおばさんに聞いてみた。
「T―君診てもらつたかしら。」
「ええ、あの時さう申しましたんですが、知らない人に診てもらふのは厭なんですて。それで、牛込の懇意なお医者を呼びにいつたんだけれど、その方も風邪で寝ていらつしやるんで、多分明日あたり診ておもらひになるんでせう。」
「呑気なことを言つてるんだな。何うして浦上さんを呼ばないんだらうな。」
 しかし其の晩はもう遅かつた。容態に変化がなささうなので、私は風邪に片着けて、一時のがれに安心してゐようとした。何か自分流儀な潔癖をもつたT―自身と細君の気分に闖入して行くのも憚られた。

     三
 翌々日の夜、或る会へ出席して、二三氏と銀座でお茶を呑んだりして帰つてくると、T―の病気が大分悪化したことを、おばさんから聞いた。誰かに見せたのかときくと、浦上ドクトルが昼間来て診察したといふのであつた。
 私は自身の怠慢に、今度も亦漸と気がついたやうに感じたと共に、浦上の診断を細君にききたかつた。急いで庭を突切つて、アパアトの裏口から入つていつた。ちやうど二段になつてゐる三階の段梯子を登りきつたところで、そこの天井裏の広い板敷の薄|闇黒《くらがり》に四十年輩の体の小締めな、私の見知らない紳士と、背のすらりとした若い女と、ひそひそ立話をしてゐるのに出会した。私はちよつと躊躇したのち、今診察を終つて、帰らうとしてゐる其の医者に話しかけた。
「失礼ですが、ちよつと私の部屋までおいで願ひたいんですが。」
「よろしうございます。」
 幼児のやうな柔軟さをもつた彼は、足を浮かすやうにして私について来た。
 私達は取散かつた私の書斎で、火鉢を間にして挨拶し合つた。
「私は少々お門違ひの婦人科でして、昼間病院にゐるものですから。」彼は名刺を出した。
「ぢやT―君が、最近※[#「やまいだれ+票」、第3水準1-88-55]疽を癒していただいたのは貴方ですか。」
「さうですよ、は、はい。」
 ドクトルはモダアンな少年雑誌の漫画のやうに愛嬌があつた。
「病気はどんなですか。」
「は、は……実は昨日もちよつと来て診ましたが、その時は分明《はつきり》わかりませんでしたが、今診たところによりますと、肺炎でも窒扶斯でもありませんな。原因はよくわかりませんが、脳膜炎といふことだけは確実ですよ、は、は。」
「脳膜炎ですか。」
「今夜あたり、もう意識がありませんよ、は。兎に角これは重体です。去年旅先で、井戸へおちて、肋骨を打たれたので、或ひは肺炎ではないかと思つてをりましたが、どうも其れらしい症状は見出せません。」
「窒扶斯でもないんですか。」
「その疑ひもないことはなかつたのですが、断じてさうぢやありませんな。」
 ドクトルは術語をつかつて、詳しく症状を説明したが、明朝もう一度来てもらふことにして、私は玄関まで送りだした。
「では……は、は……ごめん、ごめん。」ドクトルは操り人形のやうな身振りで出て行つた。
 私は事態の容易でないことを感じた。T―自身にもだが、T―の兄のK―氏に対する責任が考へられた。たとひ其れが不断何んなに仲のわるい友達同志であるにしても、T―の唯一の肉身であるK―氏の耳へ入れない訳にいかなかつた。T―は兼々この兄に何かの助力を乞ふことを、悉皆断念してゐた。勿論この兄弟は、本当に憎み合つてゐる訳ではなかつた。謂はばそれは優れた天才肌の偏倚的な芸術家と、普通そこいらの人生行路に歩みつかれて、生活の下積みになつてゐる凡庸人とのあひだに掘られた溝のやうなものであつた。K―に奇蹟が現はれて、センチメンタルな常識的人情感が、何らかの役目を演じてくれるか、T―が芸術的にか生活的にか、孰かの点で、或程度までK―に追随することができたならば、二人の交渉は今までとはまるで違つたものであるに違ひなかつた。
 ところで、K―と私自身とは、それとは全然違つた意味で、長いあひだ殆んど交渉が絶えてゐた。それは芸術の立場が違つてゐるせゐもあつたが、同じくO―先生の息のかかつた同門同志の啀み合ひでもあつた。同じ後輩として、O―先生との個人関係の親疎や、愛敬の度合ひなどが、O―先生の歿後、いつの間にか、遠心的に二人を遠ざからしめてしまつた。K―からいへば、芸術的にも生活的にもO―先生は絶対のものでなくてはならなかつたが、私自身はもつと自由な立場にゐたかつた。その気持が、時には無遠慮にK―の芸術にまで立入つて行つた。そしてK―の後半期の芸術に対する反感が又反射的にO―先生の芸術へかかつて行つた。そしてそこに感情の不純が全くないとは言ひ切れなかつた。勿論K―から遠ざけられてゐるT―に、いくらかの助力と励みを与へたとしても、それは単にT―が人懐つこく縋つてくるからで、それとは何の関係もなかつた。K―への敵意でもなかつたし、認識された陰の好意からでは尚更らなかつた。追憶的な古い話が出ると、私は時々T―にきいた。
「兄さんこの頃何うしてるのかね。」
「兄ですか。家に引こんで本ばかり読んでゐますよ。もう大分白くなりましたよ。」
「兄さん白くなつたら困るだらう。」
「でも為方がないでせう。」
 さう言つて笑つてゐるT―が、一ト頃の私のやうに、髪を染めてゐることに、最近私はやつと気がついた。T―ももう順順にさういふ年頃になつてゐた。
 兎に角私はK―へ知らせておかなければならなかつた。私は文士録をくつて番号を調べてから、近くにある自働電話へかかつて行つた。耳覚えのある女の声がした。勿論それは夫人であつた。
「突然ですが、T―さんが私のところで、病気になつたんです。可なり重態らしいのです。」
「T―さんがお宅で。まあ。」
「電話では詳しいお話も出来かねますけれど、誰方か話のわかる方をお寄越しになつて戴きたいんですが……。」
「さうですか。生憎主人が風邪で臥せつてをりますので、今晩といふ訳にもまゐりませんけれど、何とかいたしませう。お宅でも飛んだ御迷惑さまで……。」
「いや、それはいいんですが……では、何うぞ。」
 私は自働電話を出た。そして机の前へ来て坐つてみたが、落着かなかつた。ベルを押して、義弟の沢を呼んだ。沢は私の家政をやつてくれてゐるお利加おばさんの夫であつた。
「K―さん見えないんですか。」沢は火鉢の前へ来て坐つた。
「さあ……K―君に来てもらつても困るんだが……。」私は少し苛ついた口調で、
「大分悪いやうだから、病院へ入れなけあいけないと思ふが、浦上さんの診断は何うなんかな。診察がすんだら、こちらへ寄つてもらふやうに言つておいたんだが……。」
「さあ、それは聞きませんでしたが……。」
「すまんけれど、浦上さんへ行つてきいてみてくれないか。」
 沢は出て行つたが、間もなく帰つて来た。部屋の入口へ現はれた彼は悉皆興奮してゐた。
「あの医者はひどいですね。ベルをいくら押しても起きないんです。漸と起きて来て、戸をあけたかと思ふと、恐ろしい権幕で脅かすんです。医者も人間ですよ、夜は寝なけあなりません、貴方のやうに夜夜中《よるよなか》ベルを鳴らして、非常識にも程がある、と、かうなんです。」
「結局何うしたんだ。」
「あんな病人を、婦人科の医者にかけたりして、長く放抛《うつちや》らしておいて、今頃騒いだつて、私は責任はもてません、と言ふんです。私は余程ぶん殴つてしまはうかと思つたんですけれど、これから又ちよいちよい頼まなけあならないと思つたもんだから……。」
「あのお医者正直だからね。」私は苦笑してゐた。

     四
 翌朝診察を終つた浦上ドクトルと、私は玄関寄りの部屋で話してゐた。誰か帝大の医者に、もう一度診察してもらつたうへで、家で手当をするか、病室へかつぎこむかしようと思つて、その医者の撰定について相談をしてゐた。
 玄関の戸があいた。お利加さんが出た。
「わたし毛利です。K―先生の代理として伺つたんですが。」
 毛利といふ声が、何んとなし私に好い感じを与へた。
 毛利氏が入つて来た。毛利君と私はつひ最近入院中の渡瀬ドクトルの病室でも、久しぶりで顔を合せたが、渡瀬ドクトルが自宅療養のこの頃、又その二階の病室でも逢つた。K―氏の古い弟子格のフアンの一人であるところの毛利氏は、渡瀬氏ともまた年来の懇親であつた。彼は会社の公用や私用やらで、大連からやつて来て、大阪と東京とのあひだを、往つたり来たりしながら、暫らく滞在してゐた。
 毛利氏は入つて来た。
「あんたが来てくれれば。」
「いや、K―先生が来るとこだけど、ちやうど私がお訪ねしたところだつたもんだから。」
「K―君に来てもらつても、方返しがつかないんだ。」
「貴方には飛んだ御迷惑で……T―君何処にゐるんですか。」
 私はアパアトの三階にゐることについて、簡単に話した。
「そんなものがあるんですか。私はまた貴方のお宅だと思つて……。」
 T―の細君が、そつと庭からやつて来た。
「何だか変なんです。脈が止つたやうなんですが……。」彼女は泣きさうな顔をしてゐた。
「ちよつと見てあげませう。」浦上ドクトルが、折鞄をもつて起ちあがつた。
「僕も往つてみよう。」毛利氏も庭下駄を突かけて、アパアトの方へいつた。私も続いた。
 私は初めてT―の病床を見た。三階の六畳に、彼は氷枕をして仰向きに寝てゐた。大きな火鉢に湯気が立つてゐた。つひ三日程前夕暮れの巷に、赭のどた[#「どた」に傍点]靴を磨かせてゐたT―のにこにこ顔は、すつかり其の表情を失つてゐた。頬がこけて、鼻ばかり隆く聳えたち、広い額の下に、剥きだし放《ぱな》しの大きい目の瞳が、硝子玉のやうに無気味に淀んでゐた。しかし私は、今まで幾度となく人間の死を見てゐるので、別に驚きはしなかつた。それどころか、実を言ふと、肝臓癌を宣告されてゐる渡瀬ドクトルを見るよりも、心安かつた。T―がすつかり脳を冒かされてゐるからであつた。つひ此の頃、あれ程勇敢に踊りを踊り、酒も飲み、若い愛人ももつてゐた渡瀬ドクトルの病気をきいては驚いてゐたが、今やそのT―が何うやら一足先きに退場するのではないかと思はれて来た。
 みんなで来て見ると、脈搏は元通りであつたが、硬張つた首や手が、破損した機関のやうに動いて、喘ぐやうな息づかひが、今にも止まりさうであつた。細君はおろおろしながら、その体《からだ》に取《と》りついてゐた。額に入染《にじ》む脂汗《あぶらあせ》を拭き取つたり頭をさすつたり、まるで赤ん坊をあやす慈母のやうな優しさであつた。誰も口を利かなかつたが、目頭が熱くなつた。黒い裂《きれ》に蔽はれた電燈の薄明りのなかに、何か外国の偉大な芸術家のデツド・マスクを見るやうな物凄いT―の顔が、緩漫に左右に動いてゐた。
 暫くしてから、私達はそこを出て、旧の部屋へ還つた。
「少し手遅れだつたね。」私は言つた。
「さうだな。去年旅行先きで、怪我をして、肋骨を折つたといふ。」
 細君が又庭づたひにやつて来た。
「大変苦しさうで、見てゐられませんの。何とか出来ないものでせうか。」
 私達は医者の顔色を窺ふより外なかつた。
「さあ、どうも……。」ドクトルも当惑した。
「先刻注射したばかりですからね。他の人が来るまで附いてゐて下さい。大丈夫ですから。」
 ドクトルはやがて帰つて来た。
「それぢや、僕はちよつと渡瀬さんとこへ行つて、先生にもちよつと相談してみよう。」毛利氏はさう言つて起ちがけに、ポケツトへ手を突込んで、幾枚かの紙幣を掴みだした。
「百円ありますが、差当りこれだけお預けしておきます。先立つものは金ですから、何うぞ適宜に。」
「ぢや、それ此の人に渡しておかう。」私はそこにゐる細君の方を見た。
「いや、あんた預つて下さい。」
「孰でも同じだが、預つておいても可い。しかし貴方差当り必要だつたら……。」
「え少し戴いておきますわ。」
 二十円ばかり細君の手に渡した。
「ぢや、僕は又後に来ます。」
 毛利氏はさう言つて出て行つた。
 私はづつとの昔し、彼が帝大を出たてくらゐの時代に、電車のなかなどで、口を利いたことがあつたが、渡瀬ドクトルと親密の関係にある毛利氏の人柄に、この頃漸と触れることができた。K―は今は文学以外の、実際自分の仕事にたづさはつてゐる、それらの人達を、幾人となく其の周囲にもつてゐたが、この場合、私をも解つてくれさうな彼の来てくれたことは悉皆私の肩を軽くした。
 その間に、私は義弟を走らせて、浦上ドクトルが指定してくれた医者の一人、島薗内科のF―学士を迎ひにやつたが、折あしく学士は不在であつた。
「……それから自宅へ行つてみたんですが、矢張り居ませんでした。」
「そいつあ困つたな。」
「けど、帰られたら、すぐお出で下さるやうに、頼んでおきましたから。」沢は言ふのであつた。
 一時間ほどして毛利氏も帰つて来た。しかし待たれる医者は来なかつた。
「どれ、僕行つてこよう。若しかしたら、他の先生を頼んでみよう。」
 毛利氏はまた出て行つたが、予備に紹介状をもらつておいた他の一人にも、可憎《あいにく》差閊へがあつた。彼は空しく帰つて来た。
 私達は、今幽明の境に彷徨ひつつあるT―に取つて、殆んど危機だと思はれる幾時間かを、何んの施しやうもなく仇に過さなければならなかつた。
「今度の細君はよささうだね。」
「あれはね……僕も初めて見たんだが、感心してゐるんだ。」
「兎角女房運のわるい男だつたが、あれなら何うして……。先生幸福だよ。ところで、何うでせうかね。あの病気は?」
「さあね。」
 時間は四時をすぎてゐた。そしてF―医学士の来たのは、それから又大分たつてからであつた。彼は浦上ドクトルと一緒に、三階で診察をすましてから、私の部屋へやつて来た。
「重体ですね。」いきなり医学士は言つた。
「病気は何ですか。」
「私の見たところでは、何うも敗血病らしいですね。」
「窒扶斯ぢやありませんね。」私はその事が気にかかつた。
「さうぢやありませんね。」
「それで何うなんでせう、病院へ担ぎこんだ方が、無論いいんでせうが、迚も助からないやうなら、あすこで出来るだけ手当をしたいとも思ふんですけれど。」
「さうですね。実は寝台車に載せて連れて行くにしても、途中が何うかとおもはれる位で……。しかし近いですから、手当をしておいたら可いかも知れません。」
「これは細君の気持に委さう。」毛利氏が言ふので、私達は彼女を見た。
「病院で出来るだけの手当をして頂きたいんですけれど……。」
 やがて毛利氏が寝台車を※[#「にんべん+就」、第3水準1-14-40]ひに行つた。

     五
 その夜の十時頃、私はM―子と書斎にゐた。M―子は読みかけた「緋文字」に読み耽つてゐたし、私は感動の既に静つた和やかさで、煙草を喫かしてゐた。
 それはちやうど三時間ほど前、T―の寝台車が三階から担ぎおろされて行つてから、暫らくたつて、私は私の貧しい部屋に、K―の来訪を受けたからであつた。
「今度はどうもT―の奴が思ひかけないことで、御厄介かけて……。」
「いや別に……。行きがかりで……。」
「何かい、君んとこにアパアトがあるのかい。僕はまた君の家かと思つて。」
「さうなんだよ。T―君家がなくなつたもんだから。」
 K―はせかせかと気忙しさうに、
「彼奴もどうも、何か空想じみたことばかり考へてゐて、足元のわからない男なんだ。何でもいいから、こつこつ稼いで……たとひ夜店の古本屋でも、自分で遣るといふ気になるといいんだが、大きい事ばかり目論んで、一つも纏らないんだ。」
 私もそれには異議はなかつた。
「さうさ。」
「またさういふ奴にかぎつて、自分勝手で……。」
「人が好いんだね。」
 私は微笑ましくなつた。現実離れのしたK―の芸術! しかし、それは矢張り彼の犀利な目が見通す現実であつた。色々な地点からの客観や懐疑はなかつたにしても、人間の弱点や、人生の滑稽さが、裏の裏まで見通された。怜悧な少年の感覚に、こわい小父《おぢ》さんが可笑しく見えるやうな類だと言つて可かつた。
 私は又た過去の懐かしい、彼との友情に関する思出が、眼の前に展開されて来るのを感じた。「高野聖」までの彼の全貌が――幻想のなかに漂つてゐる、一貫した人生観、恋愛観が、レンズに映る草花のやうに浮びだして来た。
 少し話してから、彼は腰をうかした。
「山の神をよこさうかと思つたんだがね、あれは病院へ行つてるんだ。僕もこれから行くところなんだ。」
「これから……又僕も行くが、君も来てくれたまへ。」
「ああ、来るとも。」
 K―はT―とは、似ても似つかない、栗鼠《りす》の敏速さで、出て行つた。
 それから二時弱の時を、私は思ひに耽りつかれてゐた。私は心持ち、持病の気管を悪くしてゐたので、寝ようかとも思つたが、洋服を出してもらはうかとも考へてゐた。担ぎこまれてからT―のことが気にかかつた。
 F―子の声が、あつちの方でしてゐた。そのF―子に言つてゐる芳夫の声もした。
「K―さん、今来てゐたんだよ。」
 芳夫自身は、何か常識的、人情的な、有りふれた芸術が嫌ひであつた。
 すると遽かに、おばさんがやつて来た。
「渡瀬さんからお使ひで、病院から直ぐお出で下さるやうにと、お電話ださうです。」
 私は不吉の予感に怯えながら、急いで暖かい背広に身を固めた。そして念のためにM―子もつれて、円タクを飛ばした。
 しかし私達が、真暗な構内の広場で車を乗りすてて、M―子が漸とのことで捜し当てた、づつと奥の方にある伝染病室の無気味な廊下を通つて、その病室を訪れたときには、T―は既に屍になつてゐた。
 しかし私達は、T―が息を引取つてしまつたとは、何うしても思へないのであつた。何故なら、その時まで――それからづつと後になつて、屍室に死骸が運ばれるまで、彼女は彼の顔や頭を両手でかかへて、生きた人に言ふやうに、愛着の様々の言葉を、ヒステリイの発作のやうに間断なく口にしてゐたからであつた。彼女は広いその額を撫でさすり、一文字なりに結んだ唇に接吻した。時とすると、顔がこわれてしまひはしないかと思はれるほど、両手で弄りまはした。
「T―はほんとうに好い人だつたんですわね。」彼女は私に話しかけた。
「悪い人達に苦しめられどほしで、死んだのね。みんなが悪いんです。好い材料が沢山あつたのに、好いものを書かしてやりたうございましたわ。」
 彼女は聞えよがしに、さう言つて、又彼の顔に顔をこすりつけた。
 私はそつと病室から遁げて、煙草を吸ひに、炊事場へおりて行つた。K―もやつて来た。毛利氏や小山画伯もおりて来た。
「T―君も幸福だよ。」毛利氏は言つた。
「あいつは少年時代に、年上の女に愛されて、そんな事にかけては、腕があつたとみえるね。」K―も煙管《きせる》で一服ふかしながら笑つてゐた。
 私は又、同じあの病室で、脳膜炎で入院してゐた長女が、脊髄から水を取られるときの悲鳴を聞くのが厭さに、その時もこの炊事場で煙草をふかしてゐた、十年前のことが、漫ろに思ひ出されて来た。年々建かはつて行く病院も、此処ばかりは何も彼も昔のままであつた。
「ところで、先刻ちよつと耳にしたんだけれど、先生お土産をおいて行つたらしんだ。」
 私は有るべきことが、有るやうに在るのだと思つた。
「成程ね。」
「よく有ることだがね。」毛利氏も苦笑したが、
「そこで何うするかね、こいつあ能く相談して取決めべきことだけれど、あの細君の身の振方もだが、何よりもサクラさんのことだ。細君は自分で持つていく積りでゐるらしいんだが……。」
 サクラは此の前の細君の子であつた。
 話が後々のことに触れて行つた。

     六
 三日目に、告別式がお寺で行はれた。寺はK―や私に最も思出の深い、横寺町にあつた。
 K―と私とは、むかしこの辺を、朝となく夕となく一緒に歩いたときの気持を取返してゐた。生温るい友情が、或る因縁で繋つてゐて、それから双方の方嚮に、年々開きが出て来たところで、全然相背反してしまつたものが、今度は反動で、ぴつたり一つの点に合致したやうに――それはしかし、考へてみれば、何うにもならないことが、余儀ない外面的の動機に強ひられた妥協的なものだともいへば言へるので、いつ又た何んな機会に、或ひは自然に徐々に、何うなつて行くかは、容易に予想できないといふ不安が、全くない訳ではなかつたけれど、しかし反目の理由は、既に私の気持で取除かれてゐたので、寧ろ前よりも和やかな友誼が還つて来たのであつた。何等抵触する筈のない、異なつた二つの存在であつた。
 三日前、火葬場へ行つたときも、二十幾年も前に、嘗て私がK―の祖母を送つたときと同じ光景であつた。
 焼けるのを待つあひだ、私たちは傍らの喫茶店へ入つて、紅茶を呑んだ。K―はお茶のかはりに、酒を呑んだ。
 火葬場の帰りに、私は幾年ぶりかで、その近くに住んでゐる画伯と一緒に、K―の家へ寄つてみた。K―は生涯の主要な部分を、殆んど全くこの借家に過したといつてよかつた。硝子ごしに、往来のみえる茶の間で、私は小卓を囲んで、私の好きな菓子を食べ、お茶を呑みながら、話をした。地震のときのこと、環境の移りかはり、この家のひどく暑いことなど。
「夏は山がいいぢやないか。」
「ところが其奴がいけないんだ。例のごろごろさまがね。」
「家を建てた方がいいね。」
「それも何うもね。」
 さうやつて、長火鉢を間に向き合つてゐるK―夫婦は、神楽坂の新婚時代と少しも変らなかつた。ただ、それはそれなりに、面差しに年代の影が差してゐるだけだつた。
 K―の流儀で、通知を極度に制限したので、告別式は寂しかつたけれど、惨めではなかつた。順々に引揚げて行く参列者を送り出してから、私達は寺を出た。
「ちよつと行つてみよう。」K―が言ひ出した。
 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
「その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか恐《おつ》かなくて……。」
 私達は笑ひながら、路次を出た。そして角の墓地をめぐつて、ちやうど先生の庭からおりて行けるやうになつてゐる、裏通りの私達の昔しの塾の迹を尋ねてみた。その頃の悒鬱《むさくる》しい家や庭がすつかり潰されて、新らしい家が幾つも軒を並べてゐた。昔しの面影はどこにも忍ばれなかつた。
 今は私も、憂鬱なその頃の生活を、まるで然うした一つの、夢幻的な現象として、振返ることが出来るのであつた。それに其処で一つ鍋の飯を食べた仲間は、みんな死んでしまつた。私一人が取残されてゐた。K―はその頃、大塚の方に、祖母とT―と、今一人の妹とを呼び迎へて、一戸を構へてゐた。
 私達は神楽坂通りのたはら屋で、軽い食事をしてから、別れた。

 数日たつて、若い未亡人が、K―からの少なからぬ手当を受取つて、サクラをつれて田舎へ帰つてから、私達は銀座裏にある、K―達の行きつけの家で、一夕会食をした。そしてそれから又幾日かを過ぎて、K―は或日自身がくさくさの土産をもつて、更めて私を訪ねた。そして誰よりもK―が先生に愛されてゐたことと、客分として誰よりも優遇されてゐた私自身が一つも不平を言ふところがない筈だことと、それから病的に犬を恐れる彼の恐怖癖を、独得の話術の巧さで一席弁ずると、そこそこに帰つていつた。
 私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。