2013年1月27日日曜日

屋根の上の黒猫


昭和九年の夏、横井春野君が三田|稲門《とうもん》戦の試合を見て帰って来たところで、その時千葉の市川にいた令弟《れいてい》の夫人から、
「病気危篤、すぐ来い」
 と云う電報が来た。横井君は令弟の容態を心配だから、夜もいとわずに市川へ駈けつけた。そして、令弟の家の門口を潜《くぐ》ろうとして、何気なく屋根の上へ眼をやったところで、其処に一匹の黒猫がいて、それが糸のような声で啼《な》いていた。瞬間横井君は、
「しまった」
 と思った。それは横井君のお父さんがまだ壮《わか》い比《ころ》、酒興のうえで、一匹の黒猫を刺し殺したことがあったが、それからと云うものは、横井君の家には、何か不幸なことでもあると、きっと黒猫が姿をあらわした。お父さんが歿《な》くなった時にも、また四人の兄弟をはじめ二人の小供の歿《な》くなったときにも、やはり黒猫が来て屋根から離れなかった。横井君はそのつどそれを見ているので、
「この野郎」
 と云って、そこにあった小石を拾って投げつけた。すると猫は屋根の向う側へ姿をかくしたようであるから、家の中へ入ろうとすると、すぐまた出て来て淋しそうに啼いた。横井君は令弟のことが気になるので、もいちど小石を投げつけておいて家の中へ入った。と、令弟は気息えんえんとして、今にも呼吸を引きとろうとしているところであった。
 横井君は猫が気になるので、また外へ出て猫を追ったが、猫は依然として屋根の上から離れなかった。そして、暁《あ》けがたになってその猫の声がぴたりとやむと同時に、令弟が呼吸を引きとった。