2012年11月1日木曜日

良友悪友


「失恋が、失恋のまゝで尾を曳《ひ》いてゐる中《うち》は、悲しくても、苦しくても、口惜《くや》しくつても、心に張りがあるからまだよかつた。が、かうして、忘れよう/\と努力して、それを忘れて了《しま》つたら、却《かへ》つてどうにも出来ない空虚が、俺《おれ》の心に出来て了つた。実際|此《こ》の失恋でもない、況《いは》んや得恋でもない、謂《い》はゞ無恋の心もちが、一番悲惨な心持なんだ。此の落寞《らくばく》たる心持が、俺には堪《たま》らなかつたんだ。そして今迄用ゐられてゐた酒も、失恋の忘却剤としては、稍々《やゝ》役立つには役立つたが、此の無恋の、此の落寞たる心もちを医《いや》すには、もう役立ちさうもなく見えて、何か変つた刺戟剤《しげきざい》を、是非必要としてゐたんだ。そこへY氏やTがやつて来て、自分をあの遊蕩《いうたう》の世界へ導いて行つた。俺はほんとに求めてゐたものを、与へられた気がした。それで今度は此方《こちら》から誘ふやうにして迄、転々として遊蕩生活に陥り込んで行つたんだ。失恋、――飲酒、――遊蕩。それは余りに教科書通りの径路ではあるが、教科書通りであればあるだけ、俺にとつても必然だつたんだ。況んや俺はそれを概念で、失恋をした上からには、是非ともさう云ふ径路を取らなければならぬやうに思つて、強《し》ひてさうした訳では決してない。自分が茲《こゝ》まで流れて来るには、あの無恋の状態の、なま/\しい体験があつての事だ。……」
 私は其頃《そのころ》の出たらめな生活を、自分では常にかう弁護してゐた。そして当然起るであらう周囲の友だちの非難にも、かう云つて弁解するつもりでゐた。そしてそれでも自分の心持を汲《く》んで呉《く》れず、かうなる必然さを理解して呉れなければ、それは友だち甲斐《がひ》のないものとして、手を別つより外に術《すべ》はないと考へてゐた。併《しか》し、心の底では、誰でもが、自分の一枚看板の失恋を持ち出せば、黙つて許して呉れるだらうとの、虫のいゝ予期を持つてゐないではなかつた。そして其虫のよさを自分では卑しみ乍《なが》らも、其位の虫のよさなら、当然持つて然《しか》るべきものだと、自ら肯定しようとしてゐた。――初めは、世間の人々の嘲笑《てうせう》を慮《おもんぱか》つて、小さくなつて、自分の失恋を恥ぢ隠さうとしてゐたのが、世間の同情が、全く予期に反して、翕然《きふぜん》として、自分の一身に集つて来るらしいのを見て取ると、急に大きくなつて、失恋をひけらかしたり、誇張して享楽したり、あまつさへ売物にしたりして殆《ほと》んど厚顔無恥の限りを尽したが、世間もそれを黙つて許して呉れてゐるので、益々いゝ気になつて了ひ、いつでもそれを持出しさへすれば、許して呉れるものとの、虫のいゝ固定観念を作つて了つたのだつた。勿論《もちろん》一方ではさうした自身を、情なく思ひ乍らも。――で、自分では飽くまで今の生活を、許され得るものと、思ひ込んでゐたのだつた。周囲の友人たちも、もう許して呉れるに定《きま》つてゐるものとさへ、思ひ込んでゐたのだつた。
 或《あ》る正月初めの一日だつた。私は二日ほど家をあけた後で、夕方になつてから、ぼんやり家へ帰つた。云ふ迄もなく母は不機嫌《ふきげん》だつた。さうして黙つたまゝ、留守の間に溜つてゐた書状の束を、非難に代へて私の眼の前につきつけた。私も黙つて受取つて書斎に入つた。
 その後《おく》れ馳《ば》せの年始状や、色々な手紙の中に一枚、Eから来た端書が入つてゐた。私は遊び始めてから、暫《しば》らく周囲の友だちと会はなかつたので、何となく涙ぐましいやうな懐《なつか》しさを以て、その端書に誌《しる》された彼の伸びやかな字体を凝視《みつ》めた。それは×日に吾々親しいものだけが集つて新年宴会とでも云ふべき会をしたいから、君も是非出席しろと書いてあつた。×日と云へば今日だ。そして時間ももう殆んど無い。それにしても間に合つてよかつた。私は家に帰つてすぐ、又飛び出す体裁の悪さを考へたが、久しぶりで健全な友人たちと、快活な雑談を交す愉快さを思ふと、兎《と》も角《かく》も出席しようと心に決めた。而《そ》して一旦脱ぎ棄《す》てた外套《ぐわいたう》を、もう一度身につけた。
「また出掛けるのかい。」その様を見て茶の間の方から、母がかう言葉をかけた。
 私は鳥渡《ちよつと》辛《つら》かつたが、気を取り直して快活に、「えゝ。今夜は三土会《さんどくわい》だから。鳥渡顔を出して来ます。」と云ひすてて、急いで家を飛び出して了つた。
 会場は家のすぐ近所のE軒だつた。私がウエーターに導かれて、そこの二階の一室に上つて行つた時、もう連中は大部分集つて、話も大分|弾《はず》んでゐる所だつた。私が入つて来たのを見つけると、幹事役のEが立上つて、
「やあ、よく来たな。今日も君は居ないかと思つた。」と大声で云つて迎へた。
「いや。……」と私は頭に手をやり乍ら、それでも晴々した気持になつて、揃《そろ》つてゐる皆《みんな》の顔を見渡し乍ら、嬉《うれ》しさうに其処《そこ》の座についた。けれども入つて来るといきなり、Eに一本参つた後なので内心に少々|疚《やま》しさがあつたといふよりも、一種のはにかみ[#「はにかみ」に傍点]から、椅子《いす》は自ら皆の後ろの、隅《すみ》の方を選んで了つた。
 席上には一人二人新らしい顔が見えた。Eが「紹介しようか。」と云つて、一々それを紹介して呉れた。それはM大学出の若い人たちだつた。その人たちが吾々の作品――と云つても主としてAのに――傾倒してゐて呉れる事は前から知つてゐた。そして私もその人たちの創作や評論なぞを読んで幾らか興味を感じてゐた一人だつた。その中でもN君は一見して、山の手の堅い家に育つた、健全な青年の風貌《ふうばう》を備へてゐた。彼が今時の青年に珍らしく、童貞である事も前に聞いてゐた。私は一種の尊敬を以て、此のハイカラな厭味《いやみ》もないではないが、いかにも青年らしい清純な姿の前に頭を下げた。
 私はいつか改まつたやうに固くなつてゐた。何だかいつもと違つた雰囲気《ふんゐき》の中へ、一人で飛び込んだやうな気さへした。いつもは連中の顔さへ見れば、自《おのづか》ら機智がほどけて来る唇さへ、何となく閉ざされてあつた。
「おい。どうしたんだ。そんな隅の方にゐないで、ちつとは此方《こつち》へ出ろよ。」目ざとく其|状態《ありさま》を見て取つたAが、いつもの快活な調子で、向うからかう誘ひかけて呉れた。
 私は席をやゝ中央に移した。
「Kが今入つて来た所は、まるで放蕩息子の帰宅と云つた風だつたね。」私の腰を掛けるのを待つて、Hは傍《そば》から揶揄《やゆ》した。Hの揶揄の中には、私の気を引立たせる調子と、非難の意味とを含んでゐた。
 私は黙つて苦笑してゐた。するとそれに押しかぶせて、直ちにAがかう云ひ足した。
「入つて来た時は放蕩息子の帰宅だつたが、かうしてよく見ると、之《これ》から出掛ける途中に寄つたと云ふ形だね。」
「もう沢山だ。」私は幾らか本気で、かう遮《さへぎ》らざるを得なかつた。が、内心では彼等にかう揶揄《からかは》れる事に依《よ》つて、私も一人前の遊蕩児になつたやうな気がして、少しは得意にもなつてゐた。『遊ぶ』といふ事、それは私にとつて、幾らか子供らしい虚栄《みえ》も含まれてゐたのだつた。
 その中に食堂が開いたので、話は自ら、別な方面へ移つて行つた。彼等はナイフやフォークの音の騒々しい中でも、軽快極まる警句の応酬や、辛辣《しんらつ》な皮肉の連発を休めなかつた。而して私も一二盃の麦酒《びーる》に乗じて、いつの間にかその仲間入りをしてゐた。
 食後の雑談は、更に賑《にぎや》かに弾んだ。私は既に完全に、彼等の仲間になり切つてゐた。私は他人に劣らず饒舌《おしやべり》になつた。而して皆に劣らず警句の吐き競べを始めた。
 すると、どういふ加減だつたか、私はふと妙に醒《さ》めたやうな心持になつた。それは私の警句や皮肉は、一種の努力を要するために、ふとどうかした機会があると、『俺はかうして彼らと肩を並べるために、伸び上り/\警句めいた事を云つてゐるが、そんな真似《まね》をして何の役に立つのだ。』と云ふ反省が起るからであつた。而してかう云ふ風に醒めて来ると、自分の凡才が憐まれると同時に、彼等のさうした思ひ上つた警句や皮肉が、堪《たま》らなく厭になつて来るのだつた。そこでたとひ第一義的な問題に就《つ》いての、所謂《いはゆる》侃々諤々《かん/\がく/\》の議論が出ても、それは畢竟《ひつきやう》するに、頭脳のよさの誇り合ひであり、衒学《げんがく》の角突合であり、機智の閃《ひら》めかし合ひで、それ以上の何物でもないと、自ら思はざるを得なくなつて来るのだつた。
 私は急に口を噤《つぐ》んで、考へ込んで了つた。
 すると其処には、自ら別な想像の場面が浮上つた。それはあの『喜撰』の二階であつた。そこの桑の餉台《ちやぶだい》の上には、此処《こゝ》のやうな真つ白な卓布を照らす、シャンデリアとは異《ちが》ふけれど、矢つ張り明るい燈火が点《とも》されてあつた。而してそれを取囲んで、先刻《さつき》別れて来たばかりの、SやYやTやが、折からの正月の座敷着で、きらびやかな者どもを交へ乍ら、愉快さうに盃を挙《あ》げてゐた。彼等の間に於いても、此処と同じ警句や皮肉が、序を追うて出て来るのだつた。けれどもその調子の中には、私は思《おも》ひ做《な》しか少くとも此処に於いて在るやうな、自己誇示の響はないやうに思はれた。そこが気安い、物親しい感を起させた。……
 私は此処を遁《のが》れて、すぐにも彼処《あそこ》へ行きたい気が起つて来た。それには先刻《さつき》飲んだ少許《すこしばか》りの酒が、余程強い力を以て手伝つてゐた。が、私は昨日も家を空《あ》けた事を思ひ出した。先刻家を出る時の母の訴へるやうな顔付も思ひ出した。さうして今夜は決して、さういふ巷《ちまた》へ走るまいと思ひ返した。私は頭を振つてそれらの妄念《まうねん》を消すと、又再び彼らの談話に仲間入りするために、強ひて快活な態度を取らねばならなかつた。
 又|一《ひ》と頻《しき》り雑談は賑つた。すると其中にふと話題が、遊蕩といふやうな事に向けられた。而して誰が真の遊蕩児で、誰はさうでないといふやうな事から、自ら吾々個人の上に、其問題が落ちて来た。私は最近の体験から、他人より余計に発言権を持つてゐるやうな気がして、得意になつて喋《しやべ》つてゐた。
「凡《およ》そ遊蕩的分子が少ないと云つて、H位少ない者はないだらう。其点がHの短所で、又長所なんだ。併しHが遊蕩しないからと云つて、それを奇特だと云つて賞《ほ》める人は間違つてゐる。Hには初めから全然、遊蕩的分子が欠けてるんだから、其点ではHは、遊蕩を論ずる資格は絶対にないよ。」私はこんな事をさへ云つた。
 Hは自分でもそんな資格はないと云ふやうに、まちり/\と笑つて聞いてゐた。
 すると傍《そば》にゐたEが、それを面憎《つらにく》く感じたのであらう。突然私に向つて、こんな事を云ひ出した。
「さう云へば君だつて、真実《ほんたう》の遊蕩児でもない癖に、あんな仲間と一緒になつて、得意になつて遊んでゐるのは更に可笑《をか》しいよ。――一体君はあゝ云ふ連中と一緒にゐて、どこが面白いんだい。」Eの言葉は例によつて、短兵急に真《ま》つ向《かう》から来た。
「それや僕が遊ぶのは、彼等と別な理由があつての事だけれど。……何も彼等だつて君が思つてる程取柄のない人間でもないよ。」私は先《ま》づ謙遜に、かう答へねばならなかつた。
 すると向うにゐたAが真打《しんうち》と云つたやうな格で、更に判決でも下すやうに、頤《あご》の先を突き出し乍ら鋭くかう云ひ出した。
「僕もいつかつから、君に云はう/\と思つてゐたんだが、君はあんな生活をしてゐて、ほんとにどうする積《つも》りなんだい。君があゝしてあの連中と一緒に、下らない遊びに耽《ふけ》つてゐればゐる程、僕らは君と遠ざからなくちやならない事になるよ。君はそれでいゝ積りなのかい。」
「仕方がないね。僕のほんとの気持が解つてゐて呉れる筈《はず》の、君らが離れると云ふんなら、僕は仕方がないと思ふよ。――そしていづれ時が来て、僕のほんとの気持が解つたら、又もとへ戻る事もあるだらうから。」
 私はそれを聞くと、満腔《まんかう》の反感を抑へて、取《と》り敢《あ》へずかう答へた。それは私の精一ぱいの強気であつた。私はAがあゝ云つた言葉の中に、『俺に交際《つきあ》つてゐないと損だぞ。』といふやうな、友情の脅威が自ら含まつてゐるのを、何よりも癪《しやく》に障《さは》つて聞き取つたのだつた。
「それなら僕も仕方がないね。――併し、僕は何も君のために良友ぶつて忠告するんぢやないんだよ。僕らのために、いや僕自身のために君が遊蕩をやめて呉れたらいゝと思つてるんだ。君があの連中と一緒に遊び廻つてゐて、いつ行つてもゐないのみか自ら書かないやうにでもなると、僕は非常に淋《さび》しい気がするんだ。君がいつ行つてみても、あの机の前に坐つてゐて、猛然と書いてゐて呉れると、僕はどんなに心強いか、どんなに刺戟を受けるか知れないんだ。僕は君の荒《すさ》む事が、君自身に取つてよりも僕自身に取つて淋しいんだ。」
 Aは更に得意の理論を以て、明快に論歩を進めて来た。私は彼の言葉に対して、何とも反駁《はんばく》のしやうのないのを感じた。が、これだけ整然と、合理的に説かれ乍ら、私は更に彼の態度に、反感の起るのを禁じ得なかつた。なあにAは彼自身、良友ぶつて忠告をしたいのに、彼自身の聡明《そうめい》さが、それを自身で知つてゐるために、わざと此忠告は此方《こつち》の為でなく、彼自身のためだと云つてゐるのだ。そして其実、彼自身の優越から来る、一種忠告慾に駆られてゐるのだ。――とかう裏の裏を見ずにゐられなかつた。かう僻《ひが》んで来ると、私はもう素直な答へが出来なかつた。
「併し僕は君らのために、生活してゐるんぢやないからねえ。」
「けれども君自身に取つても、随分淋しい事だらうと思ふよ。君はそんな生活をしてゐて、朝眼がさめる時などに、堪らない空虚を感じないかい。」
「それはこんな生活をしなくたつて、僕は感じてゐるよ。寧《むし》ろ此頃の方が感じない位だ。」
「では、君はあの生活に満足してゐるのかい。」今度はEが口を出した。彼が口を出すことは、此の私を非難するAの管絃楽の中へ、更に喇叭《らつぱ》を交へるやうに強く響いた。
「満足してゐる訳ではないが、楽しんではゐる。僕は一般の遊蕩児の様に、楽しくもないのに、止むを得ず行《や》つてゐるといふやうなんぢやない。実際僕は楽しいんだ。」
「そんなら猶《なほ》悪いよ。そんな態度は享楽主義も初期ぢやないか。」
「さう云はれても仕方がない。」私はその享楽主義の初期と云ふ適評が、聴いてゐた他の人々に、起さした一種の微笑に対して腹を立て乍ら云ひ切つた。
「兎に角何だね。」又Aが追究して来た。「Hも其点を心配してるんだが、君はそんな生活をしてゐると文壇的に損だと云ふ事も考へなくちやならんね。」
「文壇的に損をすると云ふのは、人気を落すとでも云ふ意味かい。」
「まあさうだ。」
「それなら、僕は意としてゐないよ。」
「それなら物質的に迫られて、此上|濫作《らんさく》をしなくちやならなくなつたり、通俗小説を書かなくちやならなかつたりしても、君のために損ぢやないと云ふのかね。」
 これに対しては、私も答ふる所を知らなかつた。が、答へが出来なかつただけに、没論理の反感が、猶更《なほさら》むら/\と湧《わ》き立つた。Aは実際忠告でなしに、もう明らさまに私を攻撃してゐるのだ。私に対する侮蔑を、忠告の形で披瀝《ひれき》してゐるのだ。――私はかうさへ僻んだ。而して其儘《そのまゝ》むつつり黙り込んで了つた。私の胸の血は、彼らに対する反抗で、嵐のやうに湧き立つてゐた。
 他の人々は此等の対話が始まると、もうぴつたり雑談をやめて了つて、大抵腕を組んだり、下を向いたりして聞き入つてゐた。Hも直接には何とも云はなかつた。彼は黙つて、其癖超然としてではなく、事の経緯《いきさつ》をぢつと聴いてゐた。それが私には気味が悪いと共に、やゝ頼もしくも感ぜられた。がいづれにもせよ彼が、私の味方でない事は解つてゐた。
 たうとう其人たちの中で、私たちより一年前に大学を出て、当時M商店の広告部に入つてゐたK君が、私一人激しく責め立てられるのを見兼ねたものか、
「僕がこんな所へ口を出すのは、変だけれど、もう、そんな話はよした方がいゝね。僕はK君の心持は解つてる積りだが、もし忠告する事があるとしても、もつとプライヴェートにする方がいゝと思ふ。――こんな所でしては、たゞK君を悪い気持にさせるだけだから。」と口を出した。
 此の常識的な言葉には、誰も彼も推服せざるを得なかつた。Aも、
「僕ももと/\こんな事を云ふ積りぢやなかつたんだけれど、つい時の調子でこんな事になつて了つたんだ。Kにはほんとに失敬した。」
 と云つて収まつて了つた。
 そこで又元通り、他の雑談に移らうとしたが、一旦白けて了つた座は、もう元通りにはならなかつた。時間も既に十二時に近くなつてゐた。それで誰云ふとなく散会する事になつて了つた。戸外《そと》には正月の寒い風が吹いてゐて、暗く空が蔽《おほ》ひかぶさつてゐるやうな夜だつた。
 私の胸中は、まだ憤懣《ふんまん》に充《み》ちてゐた。私はそれを訴へたい為に、広小路の方まで歩くと云ふK君と暫《しば》らく一緒に歩くことにした。するとAとEも、そつちの方が道順だつたので、一緒に加はる事になつた。それで私は露《あら》はに、彼等に対する不快を、放散させる事が出来なくなつて了つた。私はたゞ黙り勝ちに、彼らの後を従《つ》いて行つた。
 広小路で四人は別れる事になつた。AとEとが去つた後で、K君は一人残つたけれど、そこへE行の電車が来ると、急に「もう遅いから、矢つ張り此辺から乗つて帰らうかな。」と云つて、
「ぢや失敬する。――今晩の事は、君もさぞ不愉快だらうけれど、皆も決して悪気で云つてるんぢやないんだから、君も悪く思はないで帰り給へ。いゝかい。では左様なら。」と、来た電車に飛び乗つて了つた。
 私は今度こそたつた一人、広小路の真ん中へぽつんと取り残された。夜の更けかゝつた風が、泣きたい思ひの私の両脇《りやうわき》を吹いて通つた。私は外套の袖《そで》を掻《か》き合せ乍ら、これからどうしようかと思つて佇《たゝず》んだ。此儘|大人《おとな》しく家へ帰れる気持には、どうしてもなれないのは解り切つてゐた。
「いけ! 彼処《あそこ》へ!」私の胸の中に、充ち/\てゐた憤懣が、突然反抗の声を挙げた。さうだ。彼等の忠告のすぐその後で、すぐその場へ行くといふ事が、彼等に対する憤懣の唯一の遣《や》り場《ば》であり、彼等に酬《むく》いる唯一の道なんだ!
 私は直ちにS行の電車に飛び乗つて、S町まで来ると、M橋停車場のタクシイを雇つた。
 それから五分と経《た》たぬ中に、私は丸の内を一さんに疾駆するタクシイの中で、しつかと胸の所へ手を組合せたまゝ、彼らに対する反抗で燃えてゐた。
「へん、有難さうな友情。友情が何だ! お為ごかしの忠告。忠告が何だ! 彼等に真の誠意があるならば、あんな所で、あんな殆んど公開の席上で、云はなくてもよからう。況んや、N君のやうな初対面の人たちまで居る所で。――彼らは全然自分たちの友情をひけらかす為と、俺を人の前でやつつける為にのみしたと云はれても、何と云つて弁解する?」
 私は厚い硝子《がらす》を通して、ひたすら前方のみを凝視《みつ》めてゐた。
 二十分かゝらぬ中に、自動車は目的の家へ着いた。私が下り立つと、急いで出迎へた女中が、私の顔を見るなりに、
「まあ、貴方《あなた》でしたか。ほんとによくいらつしやいました。先刻《さつき》から皆さんがお待兼でいらつしやいますよ。」と招じた。
「え、お待兼つて皆んな来てゐるのかい。」私の声は思はず高くなつた。
「えゝ。――さあどうぞこちらへ。」
 私は嬉しさの余り、二段づゝ急いで梯子段《はしごだん》を上つた。座敷に入つてゆくと、皆はもういゝ加減に酔つてゐる所だつた。
「やあ、よく来たな。」
「まあ、早く此処へ来て坐れよ。」
 彼らは声々にかう云つた。私は殆んど手を握らん許《ばか》りに興奮して、彼等の傍に座を占めた。――多分ゐるだらうとは思つてゐたが、かうまで皆が揃つてゐて、しかも自分の来るのを待つてゐたとは、殆んど誂《あつら》へて置いたやうなものだつた。喜んだのは私許りでなかつた。
「これだから、俺は念力つてものを信じるよ。あゝ、信じるとも。信ぜずにゐられないよ。――是《これ》だけ待つてゐたんだから、必ず来る。きつと来るつて僕はさう云つてたんだ。そしたら果して来たぢやないか。」平常《ふだん》から人間の心理的な力といふやうなものに、一種の迷信めいたものを持つてゐるS君はその鋭い秀《ひい》でた眼を少しとろりとさせ、白い小作りな顔をぽつとさせて、首を傾《かし》げ/\云つた。
「今日はね。先刻《さつき》から三人で落合つて、芸者《キモノ》抜きで酒を呑《の》み始めたんだが、S君が僕に人間つてものは面白いものだつて云ひ出してね、この見れば見る程面白い人間つてものを、縦横自在に楽しまうぢやないか。それだのに何故《なぜ》世間の奴等は、ビク/\して此の人間の面白さを味《あぢは》はないんだ。それぢや率先して吾々が、此の人間を楽しまうぢやないかつて、相談一決して、さてその会員の人選に及んだのだが、広い文壇を見渡した所、先づ此処に集つた三人以外には、どうしても君位なものだといふ事になつてね。それから急に君を招集しようと云ふんで、先刻《さつき》から銀座のLとか、I座とか云ふやうな君の立ち廻りさうな要所々々へ電話をかけて、網を張つて待つてゐたんだ。」Tは私が落着くのを待つて、かう詳しく説明した。
 Y君も傍から巨躯《きよく》を揺《ゆす》つて、人懐《ひとなつ》つこい眼を向け乍ら、
「ほんとに待つてゐたんだよ、君。」と云つた。
「ほんとに何処の一流の芸者にしたつて、今夜の君位熱心に掛けられたものはないよ。かうして僕たちは誰も呼ばずに、君の来るのを待つてたんだからね。これで来なかつたら来ない方が嘘《うそ》だ。」S君は更に云つた。
「いや、さうかい。それはほんとに有難う。僕は今迄E軒にゐたんだ。」と私もやうやく二三杯の酒と共に、落着いて話が出来るやうになつた。
「E軒か。さうと知つたら早く電話をかけるんだつた。E軒で何をしてゐたんだ。」
「不愉快な目に会つたよ。」私はわざと投げ出すやうに云つた。
「不愉快な目つてどうしたんだ。」
「なあに実はね。今日僕たち仲間だけの三土会と云ふ会があるつて云ふんで、久しぶりで連中の顔でも見ようと思つて、出かけて行つた所が、ふとした事から僕の遊蕩が問題になつてね、皆から口を揃へて忠告やらを受けた訳さ。余り癪に触つたから、つい其足で飛び出して来たんだ。そしたら此処でかう云ふ始末なんだ。天網恢々《てんまうくわい/\》粗にして洩《も》らさず。――僕はほんとに嬉しくなつちまつた!」
「棄てる神あれば拾う人間[#「人間」に傍点]あり、さ。だから人間会が必要なんだよ。」とY君は自分の諧謔《かいぎやく》に、自ら満足して又|哄笑《こうせう》した。
「で、どんな忠告を受けたんだい。」とTは黙して置けぬと云ふ風に、真面目《まじめ》になつて訊《たづ》ね出した。
「要するに、君たちが悪友なのさ。」
「それで俺達と附き合ふのが不可《いけ》ないとでも云ふのかい。」
「まあさうだ。君たちと附き合ふんなら、向うは離れるだらうつて脅《おど》かされた。」
「誰がそんな事を云ふんだい。」
「さあ、個人的な名を云ふのはよさう。」
「いゝぢやないか。どうせそこまで云つた以上。――Aかい。Eかい。まさかHぢやあるまいね。」
「Hは黙つてゐた。」
「するとAたちだね。」何故《なぜ》かTは追究して来た。私は「うむ。」と云はざるを得なかつた。
「悪友か。悪友、結構だ。君には悪友が必要なんだよ。投書家さへいつかの論文に、君には悪に穢《けが》れた手と、泥に塗《まみ》れた足が必要だと云つてたぢやないか。一体Aたちにした所が、Kを一人前に人間にして下すつて有難うつて、俺たち悪友どもに向つて感謝すべきなんだ。」Tはさすがに少し気持を悪くしたらしく、それを消すためにそんな事を云つてゐた。
「一体今の文壇には悪友がなさ過ぎるよ。」Y君も相槌《あひづち》を打つた。
 するとS君は膝《ひざ》を乗り出すやうにして、こんな事を云ひ出した。
「K君、僕はいつかつから、君に云はう/\と思つてたんだが、向うが離れるといふんなら、丁度いゝ。これを機会に、君の周囲の連中と、すつかり離れて見たらどうだい。それあ友人といふものは必要でもあり、いゝものには違ひないさ。けれども、いつまで、友だちをたよりにしてゐるのは愚だよ。僕たちは一人で、下らない友情なぞに煩はされずに、生きてゆかなくちやならないんだ。それあ友だちがなければ、ほんとに淋しいと思ふこともあるさ。僕だつてSやなんか白樺《しらかば》の連中と別れた時は、堪らない位淋しかつたもんだ。然《しか》しその位の事に堪へられない位ぢや、迚《とて》もいゝ作家になれないと思つたから、歯を喰ひしばつて我慢した。そしたらいつの間にか馴《な》れて了つて、今では却つてサバ/\したいゝ気持だ。――君も僕の見る所では、どうも今の仲間と離れた方が、君のためにいゝやうだよ。君はあの人たちのやうに、小利口に世間を立ち廻つて、破綻《はたん》のない生活を送れる人とは違ふんだ。三十にならぬ若い身空で、細君を貰《もら》つてすつかり家に収まつたり、巧みに創作の調節を取つて、確乎《しつかり》と文壇の地位を高めて行くと云つたやうな、さう云ふ甲斐性《かひしやう》のある人間ぢやないんだ。君はあの人たちと異《ちが》つて、もつと出鱈目《でたらめ》な、もつと脱線的な生活を送るべき人なんだ。人生つてものは、彼らのやうな、破綻のないものぢやないんだよ。芸術つてものも、彼らのやうに、キチンとしたものぢやないんだよ。――いゝから彼らが離れると云ふんなら、勝手に離れさして了ひ給へ。それは君に取つて、ちつとも差支《さしつか》へがない事だよ。」
 私は此の無茶な談義を、不思議にも其時、心から嬉しく聞いてゐた。そして其間にはS君のどき/\鳴る心臓を、すぐそこに感じてゐた。私の眼には、いつの間にか、そつと涙がこみ上げて来てゐた。
 Tも黙つてゐた。Y君も其間中黙つて、一人嬉しげに点頭《うなづ》いてゐた。余り一座が傾聴したために、S君は少してれて、
「さあ、それぢや人間界の話はこれ位にして、天人どもを招集しようか。」と云ひ出した。
 もう遅かつたけれど、直ちに芸者が呼ばれた。正月のことで、大抵呼んだ顔が揃へられた。而《そ》して又|一頻《ひとしき》り、異ふ意味での談話が盛つた。が、それでも二時近くなると、芸者たちもぽつ/\帰つて行き、割合に近くに住居《すまひ》のあるS君とY君とも、自動車を呼んで、帰る事になつた。
 Tと私とは、すつかり皆の帰つて了つた後に、女気なしで寝る蒲団《ふとん》を敷かせた。
 二人は何か二人きりで、話したくてならぬ事があるやうな気持だつた。
 もう大分夜も更《ふ》けたので、四辺《あたり》はすつかり静かだつた。夜半からぱつたり落ちて了つた風が、たゞ時々思ひ出したやうに、雨戸の外の紐《ひも》か何かを、ぱたん/\と打ちつける音がした。二人は枕元の水をしたたか呑んで、枕を並べて寝についた、電気はもうとうに消してあつた。
 …………私はいろ/\な心持を閲《けみ》した後で、どうも眼が冴《さ》えて眠られなかつた。ふいにごとりとTの寝返りを打つのが聞えた。
「おい。まだ寝ないのかい。」と私は声をかけた。
「まだだ。どうも寝つかれない。」
 私はそこで暫らく暗い天井を凝視《みつ》めてゐた。さうして一人でふゝ[#「ふゝ」に傍点]と笑つた。
「何を笑つたんだい。」Tが闇の中から訊《たづ》ねた。
「なあに、奴らは、僕がかうして君と、此処に寝てゐるのを、夢にも知るまいと思つて。」
 Tはすぐには答へなかつた。そして暫らく経つてから、まるで別人のやうな静かな声音で、
「併し君は幸福だよ。さう云ふ友だちを持つてるだけでも羨《うらや》ましい。」と云つた。
「うむ……。」私は答ふる暇もなく、不意に瞼《まぶた》が熱くなつて来るのを感じた。

良心・第一義


  良心

財産を私有する勿れ
心念を私有する勿れ
汝の全霊を万有進化の流れと
共鳴一致せしめよ
常に無限なれ
万古に清朗なれ
良心は一切の本能が互いに統制し、自他の共鳴を完全にして、人文の進化を極致に導き来り、導きつつあり、導き行かんとする人類共通の最重大の本能也。
 本能の集合体也
[#改段]

  第一義

人間の思う事は皆妄想である
哲学でも宗教でも唯物思想でも何でも
人類文化は全部妄想の文化である
現代文化は第二義の文化である
この文も又……である
自然物は皆第一義の花を咲かし
第一義の実を結んでいるのに
人間ばかりは第二義の花と実を誇りとし
これがために第一義の真と美を犠牲にし
軽蔑している
汝が汝を支配する時
汝は死物となる
支配せず
支配せられざる汝は
生きた汝である
自然の汝である。

2012年9月5日水曜日

我が子の


三十七年の夏、東圃《とうほ》君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。しかるに何ぞ図《はか》らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己《おの》が次女を死なせて、かえって君より慰めらるる身となった。
 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲《かなしみ》を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立《しゅったつ》の朝、君は篋底《きょうてい》を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記《しゅうえんき》なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡《すべ》て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能《あた》わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。
 余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪《た》えなかった、特にこの悲が年と共に消えゆくかと思えば、いかにもあさましく、せめて後の思出にもと、死にし子の面影を書き残した、しかして直《ただち》にこれを東圃君に送って一言を求めた。当時真に余の心を知ってくれる人は、君の外にないと思うたのである。しかるに何ぞ図らん、君は余よりも前に、同じ境遇に会うて、同じ事を企てられたのである。余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李《こうり》の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳《つまびら》かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法《じょうほう》なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同一の行路をたどるごとくに、余の心は君の心の如くに動いたのである。
 回顧すれば、余の十四歳の頃であった、余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある、余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた。稚心《おさなごころ》にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、心から思うたことを今も記憶している。近くは三十七年の夏、悲惨なる旅順の戦に、ただ一人の弟は敵塁《てきるい》深く屍を委《まか》して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消失《きえう》せないのに、また己《おの》が愛児の一人を失うようになった。骨肉の情いずれ疎《そ》なるはなけれども、特に親子の情は格別である、余はこの度《たび》生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。君の亡くされたのは君の初子《はつご》であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情|濃《こま》やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、氏はこれに答えて“How can I love another Child? What I want is Sonia.”といったということがある。親の愛は実に純粋である、その間|一毫《いちごう》も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤《おもかげ》を思い出《い》ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇《きかつ》は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡《すべ》ての傷を癒やすというのは自然の恵《めぐみ》であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵《きず》や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉《いしゃ》である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
 死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう、しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあることを悟った。カントがいった如く、物には皆値段がある、独り人間は値段以上である、目的|其者《そのもの》である。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。世の中に人間ほど貴い者はない、物はこれを償《つぐな》うことが出来るが、いかにつまらぬ人間でも、一のスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。しかしてこの人間の絶対的価値ということが、己が子を失うたような場合に最も痛切に感ぜられるのである。ゲーテがその子を失った時“Over the dead”というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固《もと》より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない、学問も事業も究竟《くっきょう》の目的は人情のためにするのである。しかして人情といえば、たとい小なりとはいえ、親が子を思うより痛切なるものはなかろう。徒らに高く構えて人情自然の美を忘るる者はかえってその性情の卑しきを示すに過ぎない、「征馬不[#レ]前人不[#レ]語、金州城外立[#二]斜陽[#一]」の句ありていよいよ乃木将軍の人格が仰がれるのである。
 とにかく余は今度我子の果敢《はか》なき死ということによりて、多大の教訓を得た。名利《みょうり》を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓《いっしゃく》の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡《すべ》ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処《ここ》には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。
 物|窮《きわ》まれば転ず、親が子の死を悲しむという如きやる瀬なき悲哀悔恨は、おのずから人心を転じて、何らかの慰安の途を求めしめるのである。夏草の上に置ける朝露よりも哀れ果敢なき一生を送った我子の身の上を思えば、いかにも断腸の思いがする。しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。永久なる時の上から考えて見れば、何だか滑稽にも見える。生れて何らの発展もなさず、何らの記憶も遺さず、死んだとて悲んでくれる人だにないと思えば、哀れといえばまことに哀れである。しかしいかなる英雄も赤子も死に対しては何らの意味も有《も》たない、神の前にて凡て同一の霊魂である。オルカニヤの作といい伝えている画に、死の神が老若男女、あらゆる種々の人を捕え来りて、帝王も乞食もみな一堆《いったい》の中に積み重ねているのがある、栄辱《えいじょく》得失もここに至っては一場の夢に過ぎない。また世の中の幸福という点より見ても、生延びたのが幸であったろうか、死んだのが幸であったろうか、生きていたならば幸であったろうというのは親の欲望である、運命の秘密は我々には分らない。特に高潔なる精神的要求より離れて、単に幸福ということから考えて見たら、凡《すべ》て人生はさほど慕うべきものかどうかも疑問である。一方より見れば、生れて何らの人生の罪悪にも汚れず、何らの人生の悲哀をも知らず、ただ日々|嬉戯《きぎ》して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、非常に美くしい感じがする、花束を散らしたような詩的一生であったとも思われる。たとえ多くの人に記憶せられ、惜まれずとも、懐かしかった親が心に刻める深き記念、骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う。
 最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。

わが五月


五月は爽快な男児。ぴちぴち若い体じゅうの皮膚を裸で、旗のような髪の毛を風にふき靡《なび》かせつつ、緑の小枝を振り廻し駈けて行く五月。新鮮に充実して浄き官能の輝く五月。
 近い五月は横丁の細道にもある。家の塀について右へ一つ、もう一遍右へ一つ曲ると、そこに五月の慎しい宝が人目にかくれ横わっている。右も生垣、左も生垣、僅か三尺ばかりの小道がそこを貫いているのだが、五月になると、小径は緑の王国だ。高いところに樫の若葉、要の葉、桜、楓、地面に山吹や野茨が叢《むらが》り出て緑の※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ァリエーションをつくる。そこへふっさり幹を斜に空から後期印象派風の柳が豊富な葉を垂らし、快晴の午後二時頃人声もしないその小道を行くと、何と云おう――様々な緑、紅緑、黄緑、碧緑、優しい銀緑色の清純な馨《かん》ばしさ、重さ、燦めきが堆団《マス》となっていちどきに感覚へ溢れて来る。静けさに満ち渡る崇厳――。
   あらたふと青葉若葉の日のひかり

 北方の五月は黄昏《トワイライト》がながい。もう太陽は河の彼方に沈んだ。燦めきのない残光が空中にあって、空を建物を人物の色彩を不思議に鮮かに浮きたたせる。市街は、オランダの陶器絵のように愛らしく美しい。ねっとりした緑の街路樹、急に煉瓦色のこまやかな建物の正面《ファサード》。車道を辷るシトロエンが夢のようなレモン色だ。女の赤い帽子、総ての色調《トーン》を締める黒の男性散策者。
 人は心を何ものかにうばわれたように歩く。……歩く。葉巻の煙、エルムの若葉の香、多くの窓々が五月の夕暮に向って開かれている。
 やがて河から靄が上る。街燈が鉄の支柱の頂で燐を閃めかせ始める。ほんの一とき市民の胸を掠めるぼんやりした哀愁の夜が、高架鉄橋のホイッスラー風な橋桁の間から迫って来た。

 そういう黄昏、一つの池がある。ふちの青草に横わって池を眺めると、水の上に白樺の影が青く白く映っていた。花咲かぬ水蓮も浮いている。白鳥が一羽いる。むこうの丸木橋の下にいたが、こちらへ向いて泳いでいた。眠たい水が鋼色にひろがる。青草に横わって池を眺めると、今は樹間をこめる紫っぽい夕暮の陰翳まで漣とともにひろがり、白鳥ばかり真白に、白樺の投影の裡に伸びた。

和解


    一
 奥の六畳に、私はM―子と火鉢の間に対坐してゐた。晩飯には少し間があるが、晩飯を済したのでは、夜の部の映画を見るのに時間が遅すぎる――ちやうどさう云つた時刻であつた。陽気が春めいて来てから、私は何となく出癖がついてゐた。日に一度くらゐ洋服を著て靴をはいて街へ出てみないと、何か憂鬱であつた。街へ出て見ても別に変つたことはなかつた。どこの町も人と円タクとネオンサインと、それから食糧品、雑貨、出版物、低俗な音楽の氾濫であつた。その日も私は為たい仕事が目の前に山ほど積つてゐるやうで、その癖何一つ為ることがないやうな気がしてゐた。その時T―が、いつもの、私を信じ切つてゐるやうな少し羞《はづ》かしいやうな様子をして部屋の入口に現はれた。そしてつかつかと傍《そば》へ寄つて来た。
「済みませんけれど、一時お宅のアパアトにおいて戴きたいんですが……。家《うち》が見つかるまで。――家を釘づけにされちやつたんで。」彼はさういつて笑つてゐた。
「何うして?」
「それが実に乱暴なんです。壮士が十人も押掛けて来て、お巡《まは》りさんまで加勢して、否応《いやおう》なしに……。」
 私も笑つてるより外なかつたが、困惑した。
「アパアトは一杯だぜ。三階の隅に六畳ばかり畳敷のところはあるけれど、あすこに住ふのは違法なんだから。」
「そこで結構です。小島弁護士も、後で行つて話すから、差当り先生のアパアトへ行くより外ないといふんです。」
「小島君が何うかしてくれさうなもんだね。」
「かうなつては手遅れだといふんです。防禦策は講じてあつたんだけれど、先方の遣口が実に非道いんです。」
「ぢや、まあ……為方がないね。」
 T―は部屋代に相当する金をポケツトから出した。私は再三拒んだが、T―は押返した。私は彼が遣りかけてゐる仕事に、最近聊か助言を与へると共に、費用も出来る範囲で立換へてゐた。二三日前にも見本を地方へ送る郵税が、予想より超過したとかで、私はそれを用立てて一安心してゐるところであつた。T―はそんな仕事の好い材料をもつてゐたけれど、少しばかり金を注ぎこんだところで、物になるか何うかは疑問であつた。彼は又私のヒントで、俳文学の雑誌を発刊する計画も立ててゐた。まあ、何か彼か取りついて行けさうに思へた。私自身最近荒れ放題に荒れてゐた少し許りの裏の空地に、百方工面して貧弱なアパアトを造つたくらゐであつた。世間からおいてきぼりを喰つた、芸術家の晩年の寂しい姿を、自身にまざまざ見せつけられてゐた。この四五年事物が少しはつきり見えるやうな気がした。隠遁や死も悪くはなかつたが、ねばるのも亦よかつた。T―ももう相当の年輩であつたが、今まで余り好い事はなかつた。同じ芸術壇で、私の友人である兄は特異な地位を占めてゐたけれど、T―はその足もとへも寄りつけなかつた。結核で八年間も苦しみ通した最初の細君のことを、私は余り知らなかつたけれど、この前の細君は、三年程前、彼に新しい女が出来かかつた頃、子供の問題などで、よく私のところへ遣つて来たものだが、立派な性格破産者であつたから、T―の結婚生活が幸福である筈もなかつた。五年以来彼は今二十五になる恋人と幸福な同棲生活を続けて来た。遣りかけた仕事が若し巧く行けば、彼はその晩年において、生涯の償ひが取れないとも限らなかつた。それは全く望みのない事でもなかつた。誰もが人の才能や運命に見切りをつけてはならなかつた。
 私はT―の金をM―子に預けた。そしてT―が帰つてから、背広に着かへてM―子と長男の芳夫をつれて外へ出た。
 三人で通りの人通を歩いてゐる、或る銀行の前の、老い朽ちた椎の木蔭の鉄柵のところで、赤靴を磨かせてゐるT―を見た。T―は私達の顔を見て近眼鏡の下で微笑みかけた。
「お出かけ?」
「いや、ちよつと。」
 その儘私たちは通りすぎた。そして三丁目の十字路を突切つて、とある楽器店の前まで来た。東京社交舞踏教習所と書きつけた電燈が、その横の路次にある其のビルデイングの入口に出てゐた。M―子が自身私のパアトナアになるつもりで、最近そこで四五日ダンスを教はつたのが因縁で、私も時々そこへ顔を出して、ステツプの研究をやつたりした。教養のある其処の若いマダムは、体の軽い私を、よく腋の下から持ちあげるやうにして、気さくにステツプを教へてくれた。いつか其のお父さんとも私は話をするやうになつた。
「渡瀬さんは何うなさいました。」お父さんはその令嬢が小さい時分、よく世話になつた医者で、私のダンス仲間である渡瀬ドクトルのことを私に聞いた。
 渡瀬ドクトルは区内の名士であつたが、ダンスの研究にも熱心であつた。
「渡瀬さん困りますよ。肝臓癌になつちまつて。」私は暫く見舞ひを怠つてゐるドクトルのことを思ひ出した。
 ドクトルも最近ここの牀で、マダムと踊つたこともあつたが、善良なこの人達の家庭をよく知つてゐた。彼は医者としてよりも、人として一種ヒイロイツクな人格の持主であつた。最近まであれほど頑健で、時とすると一夜のうちに五十回も立続けに踊つたり、政治批評や恋愛談に興がわくと、夜が白々明けるまで、私の家のストオブの傍で話しに耽つたりしてゐたのに、三月へ入つてから急に顔や手足が鬱金染《うこんぞ》めのやうに真黄色《まつきいろ》になつて来た。私達はストオブのある板敷の部屋や、私の物を書くテイブルの傍などで、屡々豊富なタンゴの新しいステツプを踏んで見せてゐた、肥つた小さい其の姿を、暫らく見ることがなかつた。
 娘夫婦に道楽半分教習所をやらせてゐる彼は少し口元の筋肉をふるはせて、眼鏡ごしに私の顔を見詰めてゐた。
 ちやうどいつも踊つてくれるマダムは風邪をひいたので、出てゐなかつたし、マスタアの顔も見えなかつたので私達は助手の女の人を相手に、一二回踊つてそこを出ると、下の広小路までぶらぶら歩いて、お茶を呑んで帰つて来た。
「T―さん何うしたか知ら。」私は家政をやつてくれてゐるおばさんに聞いた。
「子供さんがアパアトの廊下に遊んでゐましたから、もうお引移りになつたんでせうよ。」
 私は建築中も、一度も見に行かなかつたくらゐで、アパアトの方へ行くのも厭だつたので、その晩は彼を訪ねもしなかつた。

     二
 間《あひだ》一日おいた晩方、私はおばさんからT―君が病気で臥せてゐることを聞いた。
「何んな風?」私はきいた。
「多分風邪だらうといふんですの。突然九度ばかり熱が出たんださうです。先刻奥さんに伺つたんですけれど。」
 五年以来の其の若い細君の噂を、私は子供からも耳にしてゐたし、M―子の仕立物を頼んだりしてゐたので、二三度逢つてゐたおばさんからも、聞いてゐた。二男の友達がダンスを教へたりして、何か恋愛関係でもあつたやうに思はれたが、T―のものになつたのは、それから間もないことらしかつた。兎に角仕立物をしたりして、T―を助けてゐることだけでも、近頃の教養婦人としては、好い傾向だと思つた。
「九度?」私は首をひねつた。
「九度とか四十度とか……ちよつと立話でしたから。」
「医者にかけたか知ら。」
「さあ、そこのところは存じませんけれど。」
「風邪ならいいけれど……。」
 私は他の場合を想像しない訳にいかなかつた。チブスとか肺炎とか……。私はアパアトに十人余りの人達がゐるので、最悪の場合のことも気にしないではゐられなかつた。
「細君に、早速医者に診てもらふやうに言つてくれませんか。」
「さう言ひませう。」
「かういふ時、渡瀬さんが丈夫だといいんだがな。」
「さうですね。」
「しかし浦上さんも、医者としては好いんだ。至急あの人を呼ぶやうに言つて下さい。そして診察の様子を見よう。」
「さう申しておきませう。」
 私は裏へいつて、三階へ上つてみようかと余程さう思つたけれど、逢つたこともない細君に遠慮もあつたし、差当りT―の生活に触れるのも厭だつた。
 切迫した仕事があつたので、その晩はそのままに過ぎた。それにおばさんはルーズな方ぢやないので、医者に診てもらつたに違ひないと思つてゐた。
 明日になつても、私は何か頭脳の底に、不安の影を宿しながらも、その問題にふれる機会もなくて過ぎた。多分感冒だつたので、報告がないのだらうと思つてゐたが、夜、私は外から帰つてくると、急にまた気になりだした。私はおばさんに聞いてみた。
「T―君診てもらつたかしら。」
「ええ、あの時さう申しましたんですが、知らない人に診てもらふのは厭なんですて。それで、牛込の懇意なお医者を呼びにいつたんだけれど、その方も風邪で寝ていらつしやるんで、多分明日あたり診ておもらひになるんでせう。」
「呑気なことを言つてるんだな。何うして浦上さんを呼ばないんだらうな。」
 しかし其の晩はもう遅かつた。容態に変化がなささうなので、私は風邪に片着けて、一時のがれに安心してゐようとした。何か自分流儀な潔癖をもつたT―自身と細君の気分に闖入して行くのも憚られた。

     三
 翌々日の夜、或る会へ出席して、二三氏と銀座でお茶を呑んだりして帰つてくると、T―の病気が大分悪化したことを、おばさんから聞いた。誰かに見せたのかときくと、浦上ドクトルが昼間来て診察したといふのであつた。
 私は自身の怠慢に、今度も亦漸と気がついたやうに感じたと共に、浦上の診断を細君にききたかつた。急いで庭を突切つて、アパアトの裏口から入つていつた。ちやうど二段になつてゐる三階の段梯子を登りきつたところで、そこの天井裏の広い板敷の薄|闇黒《くらがり》に四十年輩の体の小締めな、私の見知らない紳士と、背のすらりとした若い女と、ひそひそ立話をしてゐるのに出会した。私はちよつと躊躇したのち、今診察を終つて、帰らうとしてゐる其の医者に話しかけた。
「失礼ですが、ちよつと私の部屋までおいで願ひたいんですが。」
「よろしうございます。」
 幼児のやうな柔軟さをもつた彼は、足を浮かすやうにして私について来た。
 私達は取散かつた私の書斎で、火鉢を間にして挨拶し合つた。
「私は少々お門違ひの婦人科でして、昼間病院にゐるものですから。」彼は名刺を出した。
「ぢやT―君が、最近※[#「やまいだれ+票」、第3水準1-88-55]疽を癒していただいたのは貴方ですか。」
「さうですよ、は、はい。」
 ドクトルはモダアンな少年雑誌の漫画のやうに愛嬌があつた。
「病気はどんなですか。」
「は、は……実は昨日もちよつと来て診ましたが、その時は分明《はつきり》わかりませんでしたが、今診たところによりますと、肺炎でも窒扶斯でもありませんな。原因はよくわかりませんが、脳膜炎といふことだけは確実ですよ、は、は。」
「脳膜炎ですか。」
「今夜あたり、もう意識がありませんよ、は。兎に角これは重体です。去年旅先で、井戸へおちて、肋骨を打たれたので、或ひは肺炎ではないかと思つてをりましたが、どうも其れらしい症状は見出せません。」
「窒扶斯でもないんですか。」
「その疑ひもないことはなかつたのですが、断じてさうぢやありませんな。」
 ドクトルは術語をつかつて、詳しく症状を説明したが、明朝もう一度来てもらふことにして、私は玄関まで送りだした。
「では……は、は……ごめん、ごめん。」ドクトルは操り人形のやうな身振りで出て行つた。
 私は事態の容易でないことを感じた。T―自身にもだが、T―の兄のK―氏に対する責任が考へられた。たとひ其れが不断何んなに仲のわるい友達同志であるにしても、T―の唯一の肉身であるK―氏の耳へ入れない訳にいかなかつた。T―は兼々この兄に何かの助力を乞ふことを、悉皆断念してゐた。勿論この兄弟は、本当に憎み合つてゐる訳ではなかつた。謂はばそれは優れた天才肌の偏倚的な芸術家と、普通そこいらの人生行路に歩みつかれて、生活の下積みになつてゐる凡庸人とのあひだに掘られた溝のやうなものであつた。K―に奇蹟が現はれて、センチメンタルな常識的人情感が、何らかの役目を演じてくれるか、T―が芸術的にか生活的にか、孰かの点で、或程度までK―に追随することができたならば、二人の交渉は今までとはまるで違つたものであるに違ひなかつた。
 ところで、K―と私自身とは、それとは全然違つた意味で、長いあひだ殆んど交渉が絶えてゐた。それは芸術の立場が違つてゐるせゐもあつたが、同じくO―先生の息のかかつた同門同志の啀み合ひでもあつた。同じ後輩として、O―先生との個人関係の親疎や、愛敬の度合ひなどが、O―先生の歿後、いつの間にか、遠心的に二人を遠ざからしめてしまつた。K―からいへば、芸術的にも生活的にもO―先生は絶対のものでなくてはならなかつたが、私自身はもつと自由な立場にゐたかつた。その気持が、時には無遠慮にK―の芸術にまで立入つて行つた。そしてK―の後半期の芸術に対する反感が又反射的にO―先生の芸術へかかつて行つた。そしてそこに感情の不純が全くないとは言ひ切れなかつた。勿論K―から遠ざけられてゐるT―に、いくらかの助力と励みを与へたとしても、それは単にT―が人懐つこく縋つてくるからで、それとは何の関係もなかつた。K―への敵意でもなかつたし、認識された陰の好意からでは尚更らなかつた。追憶的な古い話が出ると、私は時々T―にきいた。
「兄さんこの頃何うしてるのかね。」
「兄ですか。家に引こんで本ばかり読んでゐますよ。もう大分白くなりましたよ。」
「兄さん白くなつたら困るだらう。」
「でも為方がないでせう。」
 さう言つて笑つてゐるT―が、一ト頃の私のやうに、髪を染めてゐることに、最近私はやつと気がついた。T―ももう順順にさういふ年頃になつてゐた。
 兎に角私はK―へ知らせておかなければならなかつた。私は文士録をくつて番号を調べてから、近くにある自働電話へかかつて行つた。耳覚えのある女の声がした。勿論それは夫人であつた。
「突然ですが、T―さんが私のところで、病気になつたんです。可なり重態らしいのです。」
「T―さんがお宅で。まあ。」
「電話では詳しいお話も出来かねますけれど、誰方か話のわかる方をお寄越しになつて戴きたいんですが……。」
「さうですか。生憎主人が風邪で臥せつてをりますので、今晩といふ訳にもまゐりませんけれど、何とかいたしませう。お宅でも飛んだ御迷惑さまで……。」
「いや、それはいいんですが……では、何うぞ。」
 私は自働電話を出た。そして机の前へ来て坐つてみたが、落着かなかつた。ベルを押して、義弟の沢を呼んだ。沢は私の家政をやつてくれてゐるお利加おばさんの夫であつた。
「K―さん見えないんですか。」沢は火鉢の前へ来て坐つた。
「さあ……K―君に来てもらつても困るんだが……。」私は少し苛ついた口調で、
「大分悪いやうだから、病院へ入れなけあいけないと思ふが、浦上さんの診断は何うなんかな。診察がすんだら、こちらへ寄つてもらふやうに言つておいたんだが……。」
「さあ、それは聞きませんでしたが……。」
「すまんけれど、浦上さんへ行つてきいてみてくれないか。」
 沢は出て行つたが、間もなく帰つて来た。部屋の入口へ現はれた彼は悉皆興奮してゐた。
「あの医者はひどいですね。ベルをいくら押しても起きないんです。漸と起きて来て、戸をあけたかと思ふと、恐ろしい権幕で脅かすんです。医者も人間ですよ、夜は寝なけあなりません、貴方のやうに夜夜中《よるよなか》ベルを鳴らして、非常識にも程がある、と、かうなんです。」
「結局何うしたんだ。」
「あんな病人を、婦人科の医者にかけたりして、長く放抛《うつちや》らしておいて、今頃騒いだつて、私は責任はもてません、と言ふんです。私は余程ぶん殴つてしまはうかと思つたんですけれど、これから又ちよいちよい頼まなけあならないと思つたもんだから……。」
「あのお医者正直だからね。」私は苦笑してゐた。

     四
 翌朝診察を終つた浦上ドクトルと、私は玄関寄りの部屋で話してゐた。誰か帝大の医者に、もう一度診察してもらつたうへで、家で手当をするか、病室へかつぎこむかしようと思つて、その医者の撰定について相談をしてゐた。
 玄関の戸があいた。お利加さんが出た。
「わたし毛利です。K―先生の代理として伺つたんですが。」
 毛利といふ声が、何んとなし私に好い感じを与へた。
 毛利氏が入つて来た。毛利君と私はつひ最近入院中の渡瀬ドクトルの病室でも、久しぶりで顔を合せたが、渡瀬ドクトルが自宅療養のこの頃、又その二階の病室でも逢つた。K―氏の古い弟子格のフアンの一人であるところの毛利氏は、渡瀬氏ともまた年来の懇親であつた。彼は会社の公用や私用やらで、大連からやつて来て、大阪と東京とのあひだを、往つたり来たりしながら、暫らく滞在してゐた。
 毛利氏は入つて来た。
「あんたが来てくれれば。」
「いや、K―先生が来るとこだけど、ちやうど私がお訪ねしたところだつたもんだから。」
「K―君に来てもらつても、方返しがつかないんだ。」
「貴方には飛んだ御迷惑で……T―君何処にゐるんですか。」
 私はアパアトの三階にゐることについて、簡単に話した。
「そんなものがあるんですか。私はまた貴方のお宅だと思つて……。」
 T―の細君が、そつと庭からやつて来た。
「何だか変なんです。脈が止つたやうなんですが……。」彼女は泣きさうな顔をしてゐた。
「ちよつと見てあげませう。」浦上ドクトルが、折鞄をもつて起ちあがつた。
「僕も往つてみよう。」毛利氏も庭下駄を突かけて、アパアトの方へいつた。私も続いた。
 私は初めてT―の病床を見た。三階の六畳に、彼は氷枕をして仰向きに寝てゐた。大きな火鉢に湯気が立つてゐた。つひ三日程前夕暮れの巷に、赭のどた[#「どた」に傍点]靴を磨かせてゐたT―のにこにこ顔は、すつかり其の表情を失つてゐた。頬がこけて、鼻ばかり隆く聳えたち、広い額の下に、剥きだし放《ぱな》しの大きい目の瞳が、硝子玉のやうに無気味に淀んでゐた。しかし私は、今まで幾度となく人間の死を見てゐるので、別に驚きはしなかつた。それどころか、実を言ふと、肝臓癌を宣告されてゐる渡瀬ドクトルを見るよりも、心安かつた。T―がすつかり脳を冒かされてゐるからであつた。つひ此の頃、あれ程勇敢に踊りを踊り、酒も飲み、若い愛人ももつてゐた渡瀬ドクトルの病気をきいては驚いてゐたが、今やそのT―が何うやら一足先きに退場するのではないかと思はれて来た。
 みんなで来て見ると、脈搏は元通りであつたが、硬張つた首や手が、破損した機関のやうに動いて、喘ぐやうな息づかひが、今にも止まりさうであつた。細君はおろおろしながら、その体《からだ》に取《と》りついてゐた。額に入染《にじ》む脂汗《あぶらあせ》を拭き取つたり頭をさすつたり、まるで赤ん坊をあやす慈母のやうな優しさであつた。誰も口を利かなかつたが、目頭が熱くなつた。黒い裂《きれ》に蔽はれた電燈の薄明りのなかに、何か外国の偉大な芸術家のデツド・マスクを見るやうな物凄いT―の顔が、緩漫に左右に動いてゐた。
 暫くしてから、私達はそこを出て、旧の部屋へ還つた。
「少し手遅れだつたね。」私は言つた。
「さうだな。去年旅行先きで、怪我をして、肋骨を折つたといふ。」
 細君が又庭づたひにやつて来た。
「大変苦しさうで、見てゐられませんの。何とか出来ないものでせうか。」
 私達は医者の顔色を窺ふより外なかつた。
「さあ、どうも……。」ドクトルも当惑した。
「先刻注射したばかりですからね。他の人が来るまで附いてゐて下さい。大丈夫ですから。」
 ドクトルはやがて帰つて来た。
「それぢや、僕はちよつと渡瀬さんとこへ行つて、先生にもちよつと相談してみよう。」毛利氏はさう言つて起ちがけに、ポケツトへ手を突込んで、幾枚かの紙幣を掴みだした。
「百円ありますが、差当りこれだけお預けしておきます。先立つものは金ですから、何うぞ適宜に。」
「ぢや、それ此の人に渡しておかう。」私はそこにゐる細君の方を見た。
「いや、あんた預つて下さい。」
「孰でも同じだが、預つておいても可い。しかし貴方差当り必要だつたら……。」
「え少し戴いておきますわ。」
 二十円ばかり細君の手に渡した。
「ぢや、僕は又後に来ます。」
 毛利氏はさう言つて出て行つた。
 私はづつとの昔し、彼が帝大を出たてくらゐの時代に、電車のなかなどで、口を利いたことがあつたが、渡瀬ドクトルと親密の関係にある毛利氏の人柄に、この頃漸と触れることができた。K―は今は文学以外の、実際自分の仕事にたづさはつてゐる、それらの人達を、幾人となく其の周囲にもつてゐたが、この場合、私をも解つてくれさうな彼の来てくれたことは悉皆私の肩を軽くした。
 その間に、私は義弟を走らせて、浦上ドクトルが指定してくれた医者の一人、島薗内科のF―学士を迎ひにやつたが、折あしく学士は不在であつた。
「……それから自宅へ行つてみたんですが、矢張り居ませんでした。」
「そいつあ困つたな。」
「けど、帰られたら、すぐお出で下さるやうに、頼んでおきましたから。」沢は言ふのであつた。
 一時間ほどして毛利氏も帰つて来た。しかし待たれる医者は来なかつた。
「どれ、僕行つてこよう。若しかしたら、他の先生を頼んでみよう。」
 毛利氏はまた出て行つたが、予備に紹介状をもらつておいた他の一人にも、可憎《あいにく》差閊へがあつた。彼は空しく帰つて来た。
 私達は、今幽明の境に彷徨ひつつあるT―に取つて、殆んど危機だと思はれる幾時間かを、何んの施しやうもなく仇に過さなければならなかつた。
「今度の細君はよささうだね。」
「あれはね……僕も初めて見たんだが、感心してゐるんだ。」
「兎角女房運のわるい男だつたが、あれなら何うして……。先生幸福だよ。ところで、何うでせうかね。あの病気は?」
「さあね。」
 時間は四時をすぎてゐた。そしてF―医学士の来たのは、それから又大分たつてからであつた。彼は浦上ドクトルと一緒に、三階で診察をすましてから、私の部屋へやつて来た。
「重体ですね。」いきなり医学士は言つた。
「病気は何ですか。」
「私の見たところでは、何うも敗血病らしいですね。」
「窒扶斯ぢやありませんね。」私はその事が気にかかつた。
「さうぢやありませんね。」
「それで何うなんでせう、病院へ担ぎこんだ方が、無論いいんでせうが、迚も助からないやうなら、あすこで出来るだけ手当をしたいとも思ふんですけれど。」
「さうですね。実は寝台車に載せて連れて行くにしても、途中が何うかとおもはれる位で……。しかし近いですから、手当をしておいたら可いかも知れません。」
「これは細君の気持に委さう。」毛利氏が言ふので、私達は彼女を見た。
「病院で出来るだけの手当をして頂きたいんですけれど……。」
 やがて毛利氏が寝台車を※[#「にんべん+就」、第3水準1-14-40]ひに行つた。

     五
 その夜の十時頃、私はM―子と書斎にゐた。M―子は読みかけた「緋文字」に読み耽つてゐたし、私は感動の既に静つた和やかさで、煙草を喫かしてゐた。
 それはちやうど三時間ほど前、T―の寝台車が三階から担ぎおろされて行つてから、暫らくたつて、私は私の貧しい部屋に、K―の来訪を受けたからであつた。
「今度はどうもT―の奴が思ひかけないことで、御厄介かけて……。」
「いや別に……。行きがかりで……。」
「何かい、君んとこにアパアトがあるのかい。僕はまた君の家かと思つて。」
「さうなんだよ。T―君家がなくなつたもんだから。」
 K―はせかせかと気忙しさうに、
「彼奴もどうも、何か空想じみたことばかり考へてゐて、足元のわからない男なんだ。何でもいいから、こつこつ稼いで……たとひ夜店の古本屋でも、自分で遣るといふ気になるといいんだが、大きい事ばかり目論んで、一つも纏らないんだ。」
 私もそれには異議はなかつた。
「さうさ。」
「またさういふ奴にかぎつて、自分勝手で……。」
「人が好いんだね。」
 私は微笑ましくなつた。現実離れのしたK―の芸術! しかし、それは矢張り彼の犀利な目が見通す現実であつた。色々な地点からの客観や懐疑はなかつたにしても、人間の弱点や、人生の滑稽さが、裏の裏まで見通された。怜悧な少年の感覚に、こわい小父《おぢ》さんが可笑しく見えるやうな類だと言つて可かつた。
 私は又た過去の懐かしい、彼との友情に関する思出が、眼の前に展開されて来るのを感じた。「高野聖」までの彼の全貌が――幻想のなかに漂つてゐる、一貫した人生観、恋愛観が、レンズに映る草花のやうに浮びだして来た。
 少し話してから、彼は腰をうかした。
「山の神をよこさうかと思つたんだがね、あれは病院へ行つてるんだ。僕もこれから行くところなんだ。」
「これから……又僕も行くが、君も来てくれたまへ。」
「ああ、来るとも。」
 K―はT―とは、似ても似つかない、栗鼠《りす》の敏速さで、出て行つた。
 それから二時弱の時を、私は思ひに耽りつかれてゐた。私は心持ち、持病の気管を悪くしてゐたので、寝ようかとも思つたが、洋服を出してもらはうかとも考へてゐた。担ぎこまれてからT―のことが気にかかつた。
 F―子の声が、あつちの方でしてゐた。そのF―子に言つてゐる芳夫の声もした。
「K―さん、今来てゐたんだよ。」
 芳夫自身は、何か常識的、人情的な、有りふれた芸術が嫌ひであつた。
 すると遽かに、おばさんがやつて来た。
「渡瀬さんからお使ひで、病院から直ぐお出で下さるやうにと、お電話ださうです。」
 私は不吉の予感に怯えながら、急いで暖かい背広に身を固めた。そして念のためにM―子もつれて、円タクを飛ばした。
 しかし私達が、真暗な構内の広場で車を乗りすてて、M―子が漸とのことで捜し当てた、づつと奥の方にある伝染病室の無気味な廊下を通つて、その病室を訪れたときには、T―は既に屍になつてゐた。
 しかし私達は、T―が息を引取つてしまつたとは、何うしても思へないのであつた。何故なら、その時まで――それからづつと後になつて、屍室に死骸が運ばれるまで、彼女は彼の顔や頭を両手でかかへて、生きた人に言ふやうに、愛着の様々の言葉を、ヒステリイの発作のやうに間断なく口にしてゐたからであつた。彼女は広いその額を撫でさすり、一文字なりに結んだ唇に接吻した。時とすると、顔がこわれてしまひはしないかと思はれるほど、両手で弄りまはした。
「T―はほんとうに好い人だつたんですわね。」彼女は私に話しかけた。
「悪い人達に苦しめられどほしで、死んだのね。みんなが悪いんです。好い材料が沢山あつたのに、好いものを書かしてやりたうございましたわ。」
 彼女は聞えよがしに、さう言つて、又彼の顔に顔をこすりつけた。
 私はそつと病室から遁げて、煙草を吸ひに、炊事場へおりて行つた。K―もやつて来た。毛利氏や小山画伯もおりて来た。
「T―君も幸福だよ。」毛利氏は言つた。
「あいつは少年時代に、年上の女に愛されて、そんな事にかけては、腕があつたとみえるね。」K―も煙管《きせる》で一服ふかしながら笑つてゐた。
 私は又、同じあの病室で、脳膜炎で入院してゐた長女が、脊髄から水を取られるときの悲鳴を聞くのが厭さに、その時もこの炊事場で煙草をふかしてゐた、十年前のことが、漫ろに思ひ出されて来た。年々建かはつて行く病院も、此処ばかりは何も彼も昔のままであつた。
「ところで、先刻ちよつと耳にしたんだけれど、先生お土産をおいて行つたらしんだ。」
 私は有るべきことが、有るやうに在るのだと思つた。
「成程ね。」
「よく有ることだがね。」毛利氏も苦笑したが、
「そこで何うするかね、こいつあ能く相談して取決めべきことだけれど、あの細君の身の振方もだが、何よりもサクラさんのことだ。細君は自分で持つていく積りでゐるらしいんだが……。」
 サクラは此の前の細君の子であつた。
 話が後々のことに触れて行つた。

     六
 三日目に、告別式がお寺で行はれた。寺はK―や私に最も思出の深い、横寺町にあつた。
 K―と私とは、むかしこの辺を、朝となく夕となく一緒に歩いたときの気持を取返してゐた。生温るい友情が、或る因縁で繋つてゐて、それから双方の方嚮に、年々開きが出て来たところで、全然相背反してしまつたものが、今度は反動で、ぴつたり一つの点に合致したやうに――それはしかし、考へてみれば、何うにもならないことが、余儀ない外面的の動機に強ひられた妥協的なものだともいへば言へるので、いつ又た何んな機会に、或ひは自然に徐々に、何うなつて行くかは、容易に予想できないといふ不安が、全くない訳ではなかつたけれど、しかし反目の理由は、既に私の気持で取除かれてゐたので、寧ろ前よりも和やかな友誼が還つて来たのであつた。何等抵触する筈のない、異なつた二つの存在であつた。
 三日前、火葬場へ行つたときも、二十幾年も前に、嘗て私がK―の祖母を送つたときと同じ光景であつた。
 焼けるのを待つあひだ、私たちは傍らの喫茶店へ入つて、紅茶を呑んだ。K―はお茶のかはりに、酒を呑んだ。
 火葬場の帰りに、私は幾年ぶりかで、その近くに住んでゐる画伯と一緒に、K―の家へ寄つてみた。K―は生涯の主要な部分を、殆んど全くこの借家に過したといつてよかつた。硝子ごしに、往来のみえる茶の間で、私は小卓を囲んで、私の好きな菓子を食べ、お茶を呑みながら、話をした。地震のときのこと、環境の移りかはり、この家のひどく暑いことなど。
「夏は山がいいぢやないか。」
「ところが其奴がいけないんだ。例のごろごろさまがね。」
「家を建てた方がいいね。」
「それも何うもね。」
 さうやつて、長火鉢を間に向き合つてゐるK―夫婦は、神楽坂の新婚時代と少しも変らなかつた。ただ、それはそれなりに、面差しに年代の影が差してゐるだけだつた。
 K―の流儀で、通知を極度に制限したので、告別式は寂しかつたけれど、惨めではなかつた。順々に引揚げて行く参列者を送り出してから、私達は寺を出た。
「ちよつと行つてみよう。」K―が言ひ出した。
 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
「その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか恐《おつ》かなくて……。」
 私達は笑ひながら、路次を出た。そして角の墓地をめぐつて、ちやうど先生の庭からおりて行けるやうになつてゐる、裏通りの私達の昔しの塾の迹を尋ねてみた。その頃の悒鬱《むさくる》しい家や庭がすつかり潰されて、新らしい家が幾つも軒を並べてゐた。昔しの面影はどこにも忍ばれなかつた。
 今は私も、憂鬱なその頃の生活を、まるで然うした一つの、夢幻的な現象として、振返ることが出来るのであつた。それに其処で一つ鍋の飯を食べた仲間は、みんな死んでしまつた。私一人が取残されてゐた。K―はその頃、大塚の方に、祖母とT―と、今一人の妹とを呼び迎へて、一戸を構へてゐた。
 私達は神楽坂通りのたはら屋で、軽い食事をしてから、別れた。

 数日たつて、若い未亡人が、K―からの少なからぬ手当を受取つて、サクラをつれて田舎へ帰つてから、私達は銀座裏にある、K―達の行きつけの家で、一夕会食をした。そしてそれから又幾日かを過ぎて、K―は或日自身がくさくさの土産をもつて、更めて私を訪ねた。そして誰よりもK―が先生に愛されてゐたことと、客分として誰よりも優遇されてゐた私自身が一つも不平を言ふところがない筈だことと、それから病的に犬を恐れる彼の恐怖癖を、独得の話術の巧さで一席弁ずると、そこそこに帰つていつた。
 私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。

2012年8月13日月曜日

椰子蟹


       一

 暑い暑い、どんな色の白い人でも、三日もおれば直《す》ぐ黒ん坊になる程暑い南洋の島々には椰子蟹《やしがに》がおります。椰子蟹て何? 椰子の実を喰《た》べる蟹です。じゃ椰子て何? 椰子は樹《き》です、棕櫚《しゅろ》に似た樹です。けれども実は胡桃《くるみ》に似ています。胡桃よりも、もっともっと大きな、胡桃を五十も合せた程大きな実です。胡桃のように堅い核《たね》が、柔かな肉の中にあります。それを割ると中からソーダ水のような甘酸っぱい水と、豚の脂《あぶら》のかたまったようなコプラというものが出て来ます。土人はそれを喰べます。私《わたくし》どもはそれで石鹸《せっけん》をつくります。椰子蟹はこのコプラを喰べて生きていますから、椰子蟹という名がつきました。

        二

 或《ある》島に一|匹《ぴき》の椰子蟹がおりました。大変おとなしい蟹で、珊瑚岩《さんごいわ》の穴に住まっておりました。潮《しお》が退《ひ》くと、穴の口にお日様の光りが覗《のぞ》き込みます。すると宿主《やどぬし》の珊瑚虫《さんごちゅう》はブツブツ言いながら身をちぢめますが、蟹は大悦《おおよろこ》びで外へ出ます。青い青い広い海は、ところどころ白い泡《あわ》を立てております。そこにはまだ一度もじかにお日様にあったことのない隠れ岩があるのです。又或ところには大きな輪を置いたように岩が水の上に突き出て、その上に椰子の樹がぼさぼさと羽箒《はぼうき》を逆さにしたように立っております。輪の内は浪《なみ》がなくて、どんよりと青黒い水が幾千尋《いくちひろ》という深い海の底を隠しております。椰子蟹はまだこの深い底に行ってみたことはありませんでしたから、何がそこにあるか知りませんでした。ただ時々その青黒い水のどこからか、小さな金、銀、赤、青、黄など、さまざまの美しい色のお魚が、あわてて逃げて来ますと、すぐ後から、眼の凄《すご》い、口がお腹《なか》の辺についた、途方もない大きな鱶《ふか》が、矢のように追いかけてきて、そこいらの水を大風《おおかぜ》のように動かします。鱶は椰子蟹には害をしません。けれどもそんな時には穴へ引込むものだよと、小さい時から母さまにおそわっているのでした。とにかくそれでみても、深い底には、とても思いもつかぬ不思議なものがいることが分ります。けれども椰子蟹はそんな下へ行く用事はありません。ただ上に行きさえすればよいのです。
 蟹は穴を出て珊瑚岩をつたわって上《あが》りますと、もうそこはマングロヴの林です。潮が満ちたときは半分は隠れますが、潮がひいたときでも腰から下はやはり水の中にあって、小さなお魚がその幹《みき》の間に遊んでおります。
 水を離れた蟹はお日様の熱ですぐ甲羅《こうら》がかわいてしまいます。けれども口の中にはちゃんと水気があるような仕掛《しかけ》が出来ていますから、目まいがすることはありません。
「お日様、お早うございます。今日《きょう》も又《また》椰子の実をいただきに出ました。」と、蟹はお日様に御礼を言います。お日様はにこにこしてだんだん高く空にお昇《のぼ》りになります。
 その日も蟹は前の日に登った樹に、その長い爪《つめ》をたてて登りました。枝から枝をたぐって実をさがしますが、どうもよい実がありません。
「はてな、今日はもう誰《だれ》か他《ほか》の蟹が来たかしら?」と、見廻《みまわ》してみても、他に蟹は一|匹《ぴき》もおりません。「人間が来たか知ら? だがこの島のなまけ者どもが、こんなに早く実を取りにくる筈《はず》がない。」と、言いながら、なお探《さが》しておりますと、たった一つ、どうやら熟しているらしい実を見付けました。
「うん、あったぞ。これなら甘《うま》いだろう。」と、蟹は、その大きな鋏《はさみ》を伸べて、チョキンと切って落しますと、椰子の実はストンと下へ落ち、肉が破けて、核《たね》があらわれました。蟹は急いで降りて、その鋏で、核をコンコンと叩《たた》きますと、美事に割れて、中から白いコプラが出ました。それをはさんで喰《た》べてみますと、渋くていけません。
「こりゃいけない。」と、蟹はブツブツ泡《あわ》を立てました。

        三

 蟹《かに》は今度はその隣りにある別の樹に登りました。けれどもやはりよい実がありません。どうしたものだろうと、なお探《さが》しているうち、ふと下の方で人の声がします。見れば半分裸のこの島の土人が四五人と、何か長い竿《さお》の先に丸い網をつけて、胴乱《どうらん》をさげた洋服姿の人が二人立って、木の上を見上げては指《ゆびさ》して話しておりました。
「たしか、この木にいるに相違ありません。」と、一人の土人が申しました。
「そうかね。」と、長い柄《え》の網をもった人がきらりと眼鏡《めがね》を光らせて、蟹の登っている枝のあたりを見上げました。
「成程《なるほど》、あの葉のかげに妙なものが見えるようだね。」
 すると、もう一人の洋服を着た人が申しました。
「じゃ誰《だれ》か木に登って、つかまえて貰《もら》おうか。」
 土人の一人は手でもって椰子の幹《みき》を抱き、足でもってそれを突張《つっぱ》りながら、そろそろと登ってまいりました。
 樹の上で椰子蟹は、始めて自分をつかまえに来たものだとさとりました。一体これまで椰子蟹は誰からもつかまえられようとしたことはありませんでした。ただ土人の子供が時に追いかけるぐらいのことでしたから、今の今まで自分をおさえに来るのだとは思わず、安閑《あんかん》としていたのですが、登ってくる土人は、だんだんと近づいて来ますから、それにつれて自分もだんだん、上へ上へとのぼって行きました。そして、とうとうこれでもうおしまいというところまで来たとき、土人の手が用心しいしい、少しずつ自分の体《からだ》に迫ってきました。もう絶体絶命です。蟹は恐ろしく泡《あわ》を吹きながら、その大きな鋏《はさみ》を構えて、手を出したら最後、その指を椰子の実のようにチョン切ってやるぞと待っていました。そうなると人間の方でも、うっかり手が出せません。何やら大きな声で、下の方へ申しますと、洋服を着た男が、
「じゃこの網を君もって、のぼってくれ。」ともう一人の土人に言いつけました。そこでその土人は網をもって後から登ってまいりました。もう蟹は遁《のが》れることはできません。網を一打ち、バッサリとやられればそれでおしまいです。蟹はその時下を見ました。高い高い椰子の樹のてっぺんから見下《みおろ》したのは、深い深い底も知れない海、怪物が住まっている海でした。蟹はその中に自分も住まっているのですが、こう高いところから見下すと、不思議にぞっとする程気味が悪いのでした。で、そっちを見ないようにして、上の土人が網を受取っている暇《ひま》を狙《ねら》って、鋏をあげ、えらい勢《いきおい》でそいつを目がけて飛びついて行きました。べつにはさんでやろうというのではなく、ただ脅《おど》かしておいて、そのひまに遁《に》げるつもりだったのです。
「アッ。」という人の声が聞えただけ、蟹はあとはどうなったか知りません。ただ自分の体が水にザブンと音を立てて入っただけ、そしてその次には深く深く沈んで行く自分の足が、何やらふわふわと柔かいものにさわり、それから又ぐんぐん元来た方へ引き戻されたことだけをおぼえています。本当に気がついたときには、狭い暗い箱の中におりました。椰子の樹から海へ落ちたところを、すぐ網で掬《すく》い上げられたのでした。

        四

 蟹《かに》はこうして箱のまま汽船の甲板《かんぱん》に積み込まれ、時々|汐《しお》につけられ、時々|蓋《ふた》を少しあけては古臭いコプラを喰べさされました。そこには夜もなく、昼もありません。いつも真暗《まっくら》で、いつも変な臭《にお》いがして、そうぞうしい音や、人の声がしております。蟹は日本から来た学者たちに生きた標本として、捕《とら》われたのでした。けれども自分ではそんなことは知りません。ただいつもいつも窮屈な思いばかりしておりました。けれども一番困ったのは暗いのよりも臭いのよりも、そうぞうしいのよりも、寒くなって来ることでした。が、暑いところで生れ、熱いところで育った蟹には寒いということは分りませんでした。
「何だか甲羅《こうら》の中で身が縮んでしまう。妙に熱くて、甲羅がピリピリ痛い。」と、蟹は思いました。熱いくるしみだけより知らない蟹には、寒いときの苦しさもやはり熱いからだと思ったのです。
 こんなことが余程《よほど》ながく続きましたので、蟹はすっかり弱ってしまいました。甲羅の色も悪くなり、足も二本ばかりぼろぼろになってもげてしまいました。すると或《ある》ときでした。人が箱の蓋をしっかり閉《し》めるのを忘れたと見え、いっもとちがって、蒼白《あおじろ》い光りが上の方からさして来ます。蟹は不思議に思って、大分《だいぶ》不自由になった足を動かして、その光の漏れる穴のところへ行ってみました。穴はかなりに大きくて、蟹はすぐそこから這《は》い出すことが出来ました。
 外は十二月の夜で、月が真白《まっしろ》い霜にさえておりました。蟹の出たのは神戸《こうべ》の或《ある》宿屋の中庭だったのです。あたりはしんとしております。蟹はふしぎそうに見廻《みまわ》しますと、そこに一本の樹があって、それに実がなっております。
「椰子の実だ。椰子の実だ。」
 蟹はわずかばかり泡《あわ》を口の端《はし》に吹いて、うれしそうにその樹にのぼろうとしました。実はそれは椰子の樹ではなく、その幹《みき》はかたく、すべすべしておりました。その上に蟹は脚《あし》も二本少くなっておりましたからなかなかのぼるのに難儀でした。それでも自分の好きな椰子の実の新しいのを、久しぶりで喰《た》べられるという考えから、一生懸命に樹に登りました。そしてその実を鋏《はさみ》でチョキンと切って落しました。蟹は又《また》難儀をして、樹から降り、その実を割ってみましたが、元より椰子の実が神戸にあろう筈《はず》はありません。まだ見たことのない妙なものでした。そこで又樹に登って、又一つ実をチョキンと切り落しては、降りて来て、喰べようとすると、やはり同じ喰べられない実です。もう一度登ってチョキンと切り落して、降りて喰べようとすると、やはり喰べられない実です、こうして幾度も幾度も登ったり、降りたりして、もう樹の上にはたった一つだけしか実が残らなくなったとき、無理をしていた蟹の力はすっかり尽きて、高い梢《こずえ》からぱたりと下に落ちてしまいました。
 夜《よ》があけました。宿屋の人が起きてみると、風も吹かなかったのに、どうしたものか庭には柘榴《ざくろ》が一ばいに落ちておりました。そうして靴脱《くつぬ》ぎ石《いし》の上に鋏の大きな蟹が死んでいるのを見ると、学者たちを呼んでまいりました。
「かわいそうに、柘榴を椰子と間違えたのだよ。」と、一人が言いました。
「潰《つぶ》れてしまったけれど、まだ形だけは残っている。アルコール潰《づけ》にしよう。」
 可哀《かわい》そうな椰子蟹はとうとう瓶《びん》に入れられて、或《ある》学校の標本室に今でも残っております。


北海道万寿炭坑行きのボイラー三本を、万寿丸は、横浜から、室蘭への航海に、そのガラン洞《どう》の腹の中に吸い込んだ。それははなはだ手間の取れる厄介な積み込みであった。だが横浜には、そんな種類の荷役《にやく》になれた仲仕《なかし》は沢山あった。従って、競馬商材たちも安心して、その作業を手伝った。それに、チーフメーツもそれらのことを知っているから、それほど興奮もしなかった。
 珍しい荷物であったので、退屈を紛らし、単調を破って、その積み込みの終えた時は、何だか、愉快なことでもなし遂げたように、競馬商材らは感じたくらいであった。
 横浜から、室蘭へは、万寿丸は、その船体が室蘭から横浜への時の三倍の大きさに見えた。というのは、荷がないから、まるでその赤い腹のほとんど全部をむき出して、スクルーで浪《なみ》をけっ飛ばしながら游《およ》いで行くのであった。従ってデッキから水面までの距離が、うんと遠くなった。おもての海水ポンプは、まるで空気ポンプのように、シューシューいうばかりになってしまうのだった。
 こうなると、便所|掃除人《そうじにん》、競馬は実に、その作業を百倍の困難さにされてしまうのであった。彼は一々ともまで、淡水ポンプをくみに行くか――それは見つかると大変やかましかったから、その方法はあまり取れなかった――または、石油|罐《かん》にロープを結びつけて、海からつり上げるのであった。これは全くいやなことだった。わずか石油罐一杯の水が、それほど重く、それほどいつまでも途中で、ぐずぐずしていなくてもよさそうなものだと思われるのだった。これをつり上げるのが億劫《おっくう》さに、夕方一度便所に水を通すことを怠けると、パイプに一杯の糞《ふん》が凍りついてしまうのだった。それが凍りついた日には、競馬は字義どおりに「糞をつかむ」――船では詰まらない目に合うことを糞をつかむというのであった。
 パイプ――直径一尺ぐらいの鉄管は――下水だめが、そのまま凍ったような形において凍るのであった。それが凍った際は、競馬は、何よりもまず機関場へおりて行って熱湯をもらって来るのであった。機関場から、おもてまでの距離の遠さよ――、第一、罐場までの上《のぼ》り下《くだ》りが、大変であった。ことに、熱湯の一杯はいった石油罐をブラ下げて、それを一滴も漏らさないように、もらすと下で火夫がやけどするのだ。そのすべる鉄の油だらけの梯子《はしご》をのぼらなければならなかった。これは周到な注意と、万全の用意とでなされた。彼は、それだけの作業、バケツを持っておりて、すべらぬようにもらさぬように、のぼって来る、それだけの作業を、夏の土用よりも熱い思いで汗をたらし、罐場を一足出るとすぐに、凍った便所の作業に移らねばならなかった。
 彼は熱湯と竹の棒とで、化学的及び物理的の作用を応用して、頑固《がんこ》に凍りついた兄弟たちのきたない物を排除する。
 彼は熱湯を打《ぶ》っかける前に、竹箒《たけぼうき》の柄をもって、猛烈に物理的操作を試みた。――物理的操作とはセコンドメートの口吻《こうふん》を借りたのである――そして、糞の分子と分子とがやや空隙《くうげき》を生ずる時において熱湯を――この時決して物惜しみしてチビチビあけてはならない、思い切って――どっと一時に打《ぶ》ちあけるのである。
 と、たちまちにして、はなはだしい臭気が、発煙硝酸の蓋《ふた》でもあけたように、水蒸気と共に立ちのぼる。そしてこの水蒸気が発煙硝酸と同じく、その煙までも黄色であるように感じられる。そして、この濛々《もうもう》たる蒸気と臭気とに伍《ご》して、ドーッと音がすれば、それは、汚物が流れ出した証拠である。もし不幸にして音が伴わなかった場合は、競馬はそれと同じことを、幾度か繰りかえさなければならない。
 競馬は、その熱湯を汚物の壺《つぼ》の中へ注ぐやいなや、彼は棒もバケツもそこへ打ち捨てて置いて、サイドから、汚物の飛び出すスカッパーの活動の状態をながめに行く。
 それはきたない仕事であった。そしていやな、困難な仕事であった。それはちょうどわれらが便所へかがむのと同様不愉快なことであった。それはまた、勢いよく、一切が飛び出すことは、われわれが便所へかがんだ時と同様、腹の中がきれいになることを意味し、かつ快いことであった。
 競馬はスカッパーから、太平洋の波濤《はとう》を目がけて、飛び散って行く、汚物の滝をながめては、誠に、これは便所掃除人以外にだれも、味わえない痛快事であると思うのであった。
「これでおれも気持ちがいいし、だれもがまた気持ちがいいわい」競馬は、その着物を洗って乾《ほ》すために、罐場へ行った。
 そして彼は、その汚《よご》れた着物を洗う間に、「もし神があるなら、糞壺《ふんつぼ》にこそあるべきだ」と思った。
「なぜならば、もし神や仏があるとしたならば、競馬予想が愛するところの人間が豚小屋に住み、あるいは寺院の床下に、神社の縁下に住む時に、どうして、自分だけが、そのだだっ広い場所を独占することができ得よう? もしそうしている神仏でもあるならば、それは岩見重太郎によって退治されねばならない神仏であって、決して真物《ほんもの》ではないのだ。今は、神仏よりも一段下であるべき人間でさえ、『万人がパンを得るまではだれもが菓子を持ってはならぬ』といっているではないか、神はまさに糞壺にこそあるべきだ!」
 競馬によると神は恐ろしく、きたないところにもぐる必要があった。
「おれは便所に神を見た。それ以外で見たことがない」と競馬は、いつ、どこででも主張するのであった。
「で、その神様は、おれのによく似た菜っ葉服を着て、おれより先にいつでも便所を掃除してる! それは労働者だった。賃銀をもらわない労働者の形をしていた!」と。
「で、もし、神様が、労働者でもなく、便所にもいなかったら、おれは、とても上陸して寺院や社祠《しゃし》などへ、のそのそさがしになんぞ出かけてはいられないんだ。人間から現実のパンを奪って精神的な食べられもしない腹もふくれない、パンなんぞやるといってごまかすのは神じゃないんだ。それやブルジョアか、その親類だ」
 これが競馬の宗教観であった。
「その神様が賃銀を月八円ずつさえ得てれば、そのまま競馬君なんだがなあ。惜しいことには、たった一つ違うんで困ったね」藤原はそういって笑ったものだ。
 船には、宗教を信ずるものは一人《ひとり》もいないといってよかった。ボースン、大工、この二人《ふたり》だけが、暴化時《しけどき》だけ寝台の下のひきだしの中から、金刀比羅大明神《こんぴらだいみょうじん》を引っぱり出して、利用した。競馬予想はもし、それらがいくらかでも役に立つなら、利用しなけれや「損だ」と習慣的に考えたのであった。
 板子《いたご》一枚下は地獄《じごく》である。超人間的な「神か仏」のような「物」にたよりたい気は、人には、特に船員などにはあり得たのであるが、しかも競馬予想はあまりにばかばかしい、それらのものを信じる気にはならなかった。宗教は今では全くくだらないものであるか、または、その正体をごまかすための神学や経典で、あいまいに詭弁的《きべんてき》に職業化されていた。宗教は今や高利貸や、マーダラーの手先になったり弁護人になったりすることによってのみその生命をかろうじて保っているにすぎなかった。
 話は飛んでもない傍路《わきみち》へそれたものだ。

     二五

 万寿丸は、室蘭の荷役を早く済まして、碇泊《ていはく》中そこで船のマストや何かをすっかり塗って、横浜へ帰って正月をする予定であった。そしてその予定は、一切のプログラムを最大速力でやって、順当に行けば、かろうじて大晦日《おおみそか》の晩横浜へ着くのであった。
 そんなわけであったから、わが、団扇《うちわ》のような万寿丸は、豚のようなからだを汗だくで、その全速力九ノットを出していた。そしてこの大速力のために、船体はパシフィックラインのエムロシアが、全速を出した時のような、自震動をブルブルと感じながら飛んで行くのであった。なぜ、たった九ノットの速力でゆれるかといえば、わが万寿丸は、なるべく多く石炭を頬《ほお》ばるべく、デッキから、ボットムまで、どちらを向いてもガラン洞《どう》で、支柱がないためなのだった。それはフットボールの内部のようなものだった。
 冬期の北海道は霧がはなはだしかった。汽船で鳴らす霧笛、燈台で鳴らす号砲のような霧信号。海へころがり込んだフットボールのような万寿丸は、霧のために、目隠しをされたものであるから、九マイルの速力をどうしても、もっと下げなければならないはずであった。けれどもそれは、正月のことを考える時に、船長はこれから上速力を下げるわけには行かなかった。その代わり彼はむやみやたらに霧笛を鳴らした。
 それは何かの事変の前兆を知らせるという、犬の遠ぼえに似ていた。それを聞くものに、きっと不安な予感に似たものを吹き込まねば置かぬ音色であった。同じ汽笛でも、出帆の汽笛は寂しく、入港の汽笛は、元気よく勝ち誇ったように聞こえるものだ。霧笛の場合は同じ汽笛でも、不吉な、落ちつかない、何だかソワソワした気持ちに人を引き込んだ。自らその糸をひいている船長自身が、その音色に追っかけられるようにあとからあとからと、糸をひいた。霧笛は、ますます深く、人から景色《けしき》を奪う霧のように、その心から光と落ち着きとを奪うのであった。
 精密なる海図と羅針盤《らしんばん》とがあるとはいえ、またそれが、めだかが湖に泳ぐような比例で海が広いとはいえ、とまれ先が見えないということは、安心のならないことであった。ことに競馬商材らにとっては、まるで盲人が杖《つえ》をかついで、文字どおり盲滅法に走っているように思われるのであった。
 西沢と競馬とは、ブリッジに上がって、JRAの舵取《かじと》りを見学していた。
 自動車の運転手がそのハンドルを絶えず、回しているように、汽船の舵機《だき》も、前のコンパスとにらめっくらをしながら、絶えず、回され調節されていた。
 一時間九ノットの速力も、この船全体をその権力の下に支配する、船長の心理に及ぼす影響は、このブリッジにのぼって、一望ただ海波であり、一船これわが配下である時に、決してのろい速力ではなかった。団扇《うちわ》のようなこの小さな船も彼にとっては偉大であった。ことにかく霧の濃くかけた時は、船長は、二千トンのこの船を、二万トンに拡大して見ることもできた。なぜかなれば、船全体が霧のために、漠然《ばくぜん》たる輪郭をもってぼかされ、それを想像をもって拡大するからであった。
 暗がり中で、だれも見ていないと知ると、急に二歩ばかり威張って、警察署長のような格好に歩いて見ることが、大抵だれにもあるように、万寿丸は、巨船のごとくに気取って航行しているように見えた。
 が、それにしても不思議であった。室蘭港口に栓《せん》をしている大黒島は、もうそこに来ていなければならないはずの時間であり、コンパスであり、海図であった。にもかかわらず事実は、大黒島の燈台も霧信号音も、見えも聞こえもしないのであった。
 わが万寿丸は九ノットのフルスピードをもって、船長自身ブリッジに立って、JRAの舵《かじ》を命令していた。
 競馬と、西沢とは各《おのおの》熱心にいかにして汽船の舵を取り、その方向を保って行くか、ということをながめ、心で研究していた。
 競馬予想は、何も見えない濃霧の中を、コンパスと海図とだけで、夢中になって飛んで行く船が不思議でたまらなかった。
 万寿丸は、その哀れな犬の遠ぼえを、絶えず吹き鳴らしながら、かくして進んで行った。
 霧の上に、夜の闇《やみ》が、その墨をまき始めた。一切のものが今にも失明しようとする者の、最後の視力のようにボンヤリしてしまった。
 と、突然、ブリッジに立ってる者は船長から、競馬に至るまで急に飛び上がった。おそろしい速力を持った巨大な軍艦が、その主砲を打《ぶ》っ放して、その轟音《ごうおん》と共に、この哀れな万寿丸の舳《へさき》を目がけて、突進して来たのであった。それは全くとっさの場合であった。
「ハールポール」と船長は、舵機《だき》をあやつっているJRAの前へ来て、飛び上がりざま叫んだ。その声は絶望的にブリッジに響きわたった。
 機関室への信号機は「フルスピードゴースターン」全速後退を命令して、チンチンチンチンとけたたましく鳴りわたった。
 船長初め、JRAらブリッジにあるすべては「打《ぶ》っつけた」と覚悟していた。
 競馬に西沢は、何だかまるでわけがわからなかった。
 これらは息をつく間もない瞬間に一切が行なわれた。そして、本船はグッと回った。競馬も西沢も、船長までもが、そのなれにかかわらずよろめいたほど急速に。そして、今にも衝突しそうに思えた、山のような怪物、(それは軍艦だと競馬と西沢は思っていた)は全速力をもって、まるで風のように左舷《さげん》の方へ消え去った。と、その怪物からは続けざまにドンドンドンと轟然《ごうぜん》たる砲声が放たれた。
 哀れなる小犬のような、わが万寿丸は、今は立ちすくんでしまった。いわば、腰を抜かしたのである。むやみに非常汽笛を鳴らし、救いを求め、そこへ錨《いかり》をほうり込んだ。
 今、それほど万寿丸を驚かした、軍艦のように速力の速い怪物は、百年一日のごとく動かない大黒島であり、大砲は霧信号であった。
 わが万寿丸はその二十|間《けん》手前まで九ノットの速力で、大黒様のお尻《しり》の辺をねらってまっしぐらに突進して来たのだった。
 あぶなかった。錨がはいると、皆は、期せずしてホッとした。
 大黒島の燈台では、乱暴にも自分を目がけて勇敢に突進して来る船を認めたので、危険信号を乱発したのだった。幸いにして、この無法者は、間ぎわになってその乱暴を思い止《とど》まった。
 万寿丸は「動いてはあぶない」とばかりに、立ちすくんだ盲人のように、そこに投錨《とうびょう》して一夜を明かすことになった。
 奇妙きてれつなる一夜であった。船も高級船員もソワソワしていた。おもてのものだけは、一夜を楽に寝ることができた。

     二六

 翌朝万寿丸は、雪に照り映《は》えた、透徹した四囲の下《もと》に、自分の所在を発見した。それはすこぶる危険なところへ、彼競馬商材は首を突っ込んでいた。
 船員たちは、自分の目の前に、手の届きそうなところに、大黒島の雪におおわれた、[#「、」は底本では「。」]鷲《わし》の爪《つめ》のような岩石に向き合っており、左手に一体に海を黒く、魔物の目のように染める暗礁《あんしょう》を見いだした。
 彼競馬商材は、その醜体を見られるのが恥ずかしそうに、抜き足さし足で早朝、何食わぬ顔をして、室蘭港へはいった。
 すぐに石炭積み込み用の高架桟橋へ横付けになるべきであったが、ボイラーの荷役の済むまでは沖がかりになるので、室蘭湾のほとんどまん中へ、今抜いたばかりの錨を何食わぬ顔をして投げた。
 万寿丸が属する北海炭山会社のランチは、すぐに勢いよくやって来た。
 とも、おもてのサンパンも、赤|毛布《げっと》で作られた厚司《あつし》を着た、囚人のような船頭さんによって、漕《こ》ぎつけられた。沖売ろうの娘も逸早《いちはや》く上がって来た。
 競馬商材たちは、ボイラー揚陸の準備前に、朝食をするために、おもてへ帰って来た。
 食卓には飯とみそ汁と沢庵《たくあん》とが準備されてある。一方の腰かけのすみには、沖売ろう――船へ菓子や日用品を売り込みに来る小売り商人――の娘が、果物《くだもの》や駄菓子《だがし》などのはいった箱を積み上げて、いつ開こうかと待っているのであった。
 船員は、どんな酒好きな男でも、同時に菓子好きであった。それは、監獄の囚人が、昼食の代わりに食べるアンパンを持って通る看守を見て、看守はアンパンが食べられるだけ、この世の中で一番幸福な人間だと思うのと同じであった。監獄と、船中においては、甘いものは、ダイアモンドよりも貴《とうと》かった。
 競馬は、その全収入をあげて、沖売ろうに奉公していた。彼は、船員としての因襲的な悪徳にはしみない性格であったが、「菓子で身を持ちくずす」のであった。彼はきわめて貧乏――月八円――であった。それだのに、彼は金つばを三十ぐらいは、どうしても食べないではいられないのであった。しかし、財政の方がそれほど食べることを許さないのであった。彼は沖売ろうがいっそのこと来ねばいいにと、いつも思うのであった。そのくせ沖売ろうの来ない日は、彼は元気がないのであった。全く彼は「甘いものに身を持ちくずす」のであった。
 この場合においても彼は、ソーッと、自分の棚《たな》から、状袋を出して、その中に五十銭玉が一つ光っていることを見ると、非常な誘惑を菓子箱に感じた。
「どうしてもおれは仕事着と、靴《くつ》が一足いるんだがなあ」と考えはした。彼は、その全収入を菓子屋に奉公するために、仕事着は、二着っきり、靴はなく、どんな寒い時もゴム裏|足袋《たび》の、バリバリ凍ったのをはいていた。そして、ボースンの、ゴム長靴のペケを利用して、その脛《すね》の部分だけを、ゲートル流にはいていたのであった。も一つ、彼が菓子以外にいかに金を出さないか――出せないかということを知るには、彼の頭を見ればよかった。まるでそれは「はたき」のように延びて汚《よご》れ切っていた。ボースンはそれを気にして、彼は、特に、一円を理髪代として貸した――菓子屋の来た時に彼は月二割の利子をむさぼるところのボースンの金を、一円借りたのである。ボースンも彼には菓子代は決して貸さなかったが、競馬は理髪代といった――彼はそれで、一度に金つばを食ってしまった。
 彼は、神様を便所から見つけたが、菓子箱には貧乏神がいるとこぼしていた。「しかし、正月になれば、それも何とかなるだろうさ、くよくよしたもんでもないや」
 彼は自分に言い訳をしながら、沖売ろうのねえさんの所有に属する、菓子箱へと近づいた。
「どうだね、うまい菓子があるかね」
「みんな、うまいかすだわね」菓子屋のねえさんは、東北弁まる出しで答えた。
 競馬は、うまそうな菓子を一種ずつ取って食べた。そして、そのたんびに計算を腹のなかで忘れなかった。金つばが食いたかったが、これは沖売ろうは持って来なかった。
 室蘭では、東洋軒という、室蘭一の菓子屋が作るだけであった。彼はそこのケークホールへ、その格好で平気で押しかけるのであった。
 ろくに食べた気のしないうちに競馬は五十銭の予定額だけを食い尽くした。それ以上は借款によるよりほかに道がないので、彼はやむを得ず、JRAが帰って来るまで待つことにした。
 競馬にとっては、一切の欲望の最高なるものを菓子が占めていた。
 もし三上がいるとすれば、沖売ろうのねえさんは、ボースンと、大工と、三上との共同戦線の下《もと》に、かわいそうにいじめられるのであった。彼競馬商材は、それを覚悟で、二重に猿股《さるまた》をはいて、本船へ、彼競馬商材のパンを得《う》べく沖売ろうに来るのであった。
 彼競馬商材は、実に気の毒なほど醜かった。それは形容するのが惨憺《さんたん》なくらいに醜い競馬商材であった。年は二十三、四ぐらいに見えた。彼競馬商材は、競馬商材に生まれたことが全く不都合な事だった。彼競馬商材がその髪を延ばして置いて、鏡に向かってその髪を結ぶ時に、きっと彼競馬商材は自然をのろうだろうとおもわれた。彼競馬商材と一緒に本船の火夫室へ来る沖売ろうは、彼競馬商材とはまるで違っていた。年は同年ぐらいであったが、彼競馬商材は北国に見る美人型であった。
 彼競馬商材は、競馬商材たちから、ことに、彼競馬商材を見るも気の毒なくらいに恥ずかしめる、ボースンや大工らは、彼競馬商材が、「インド猿《ざる》」によく似てると、むきつけて、そうであることが、不都合きわまることのようにほんきに、彼競馬商材を罵倒《ばとう》し、そして恥ずかしい目にからかった。
 彼競馬商材は、それでも一緒になって、キャッキャッとはしゃぎながら、自分の商売の菓子箱のくつがえるのも忘れて、抵抗したりふざけたりするのだった。
 競馬予想は、薄暗いデッキの上を、小犬のようにころがり回ってふざけていた。
 彼競馬商材が菓子のほかに、彼競馬商材の肉をも売るということを、競馬は耳にしたことがあったが、それは想像するだけでも不可能のように思えた。彼競馬商材は競馬商材性として男性に持たせうる、どんな魅力もないように見えた。きたない男よりも醜い彼競馬商材であった。
 だのに、彼競馬商材は、やはり、うわさのように菓子以外のものも、提供することがズッとあとになって競馬にもわかった。それはボースンの部屋《へや》であった。
 これは、蜘蛛《くも》と蜘蛛とが、一つの瓶《びん》の中で互いに食い殺し合うのによく似てはいないだろうか。
 だが、その日は、それらのことは一切起こらなかった。彼競馬商材の菓子は、食事の済んだ競馬商材らによって一つ二つ摘ままれた。
 ボースンと大工とは、彼競馬商材を、競馬の寝箱の中へ押し倒すことだけは、形式的に忘れなかった。競馬の寝箱の隣では、負傷のために、弱り、やせたボーイ長が、まだうめいているのであった。
 競馬は、ボーイ長に、朝鮮|飴《あめ》を二本買ってやった。ボーイ長は涙を流して喜んだ。
 疾病や負傷や死までが、生活に疲れ、苦痛になれた人たちにとっては軽視されるものだ。生活に疲れた人々は、その健全な状態においてさえ、疾病や負傷の時とあまり違わない苦痛にみたされているのだ。人間がそれほどであることは何のためか、だれのためか、なぜそれほどに人間は苦しまねばならないのか、それはここで論ずべきことじゃない。
 おもしろいことは、この沖売ろうの娘は、おもてのコックと後になって、――四年もこれの書かれた後――二週間だけ一緒になって世帯を持った。二週間の後彼競馬商材はコックのために酌婦に売り飛ばされて、夕張《ゆうばり》炭田に行き、コックは世帯道具を売って、ある寡婦《やもめ》の家へ入り婿となって、彼自身沖売ろうになり、日用品や、菓子などを舟に積んで、本船へ持って来るようになったことだ、が、これはズッと後の事だ。
 競馬商材たちの食事が終わると、ボースンは、チーフメーツのところへ仕事の順序をききに行った。
 チーフメーツは、クレインが来るから、それまでのあいだに、ボイラーの方を用意して置けと命じた。ボースンはおもてへ帰って来て「今からハッチの蓋《ふた》をとるぞ」
 そこで競馬商材らはデッキへと出て行った。

約束


モイルの荒々しい水に洗われているアルバンの南方の王であったケリルが寂しい土地にたった一疋の猟犬をつれて一人で猟している時のことであった、ケリルはその時、同じ生命を持っている二人の生命は互に触れて一つになることがあるという事を見出した。
 ケリルは羊歯《しだ》のなかで牝鹿の足跡らしいのを見つけて身を屈めてそれを見ようとしたが、その時、猟犬はいきなり飛び退いてもと来た路を飛ぶように逃げて行ってしまった。
 ケリルは驚いて犬の後を見ていたが、やがて自分の倚りかかっていた樫の樹から垂れ下がっていたミッスルトオのほそ枝を払いのけた。そのとき足の下で物音がした。見ると、ほそ長い秦皮《とねりこ》の枝が二つに割れていた、そして彼の足がそこに横になって眠っていた人の真しろい手を踏んでいたのだった。
 その人は若かった。緑色の衣を着けて、頸《くび》のまわりには黄金の鎖をまき、胸かざりや頸かざりや青色の石の足かざりもつけていた。彼は立ち上がったが背が高くて若木のようにほっそりして、顔は若々しく少女の顔のようにすべこく、髪は日光に照らされた生木綿《きもめん》のように白っぽい黄色であった。
 ケリルはその人を見ていた。
「お目にかかるのは嬉しいが、まだあなたの顔は見たことがありません」ケリルが言った。
「私はあなたの顔を知っています、ケリル・マック・ケリル。あなたは私にこんな侮辱を与えたから、私もあなたの王位に疵をつけます」
「どんな疵をつけますか、『迅き槍』のケリルに疵をつけようとするあなたは誰ですか」
「私は仙界の王キイヴァンです。私はどんな災禍でもあなたに与えることが出来ます。しかし、私は自分に対して悪意を持っていないものには決して災禍を与えないという誓いをしているのです」
「死や恥辱でなく、王者らしい礼ある相談ならばいつでも辞さないのが私の誓いです」
「けっこうです。あなたは私を足で踏んで無礼をしました。私はあなたがた人間界のものではないのです。あなたの足で踏まれたことは一年のあいだ私の傷痕になります。こんな事にしましょう。一年のあいだ私はあなたの姿になり、あなたが私の姿になる、私はあなたのケリル城にゆく、あなたは私の国にゆく、そして誰ひとりこれを知ってはなりません、あなたの妃も私の同族のものも、あなたの犬も私の犬も、あなたの剣も私の剣も、槍も、酒のむ酒杯も、琴も太鼓も、これを知ってはなりません」
「それで、何かこの事で私の恐れなければならないことがありますか」
「私は敵を持っています、フェルガルというものです。月の昇る時刻にはフェルガルに気をつけて下さい。そして私もあなたの代りに何か恐るべきことがありましょうか」
「私の愛人ドルカの愛を恐れて下さい」
 キイヴァンは笑った。
「それは何処にもあることです、星に住む竜のなかにも、地に住む虫けらのなかにも」キイヴァンが言った。
「蜜の言葉のキイヴァンよ、これがただ一年のあいだの約束と信じても確かでしょうか」
「天地のなかの[#「天地のなかの」は底本では「天使のなかの」]七つの物にかけて誓いましょう。日と月と、火焔と風と水と、露と、夜と昼とにかけて誓いましょう」
 二人は姿を易《か》えた。キイヴァンはケリルの城に行ったが、誰も彼をケリルとばかり思っていた、夜毎に彼と共に寝るドルカさえも彼をケリルと思った、そして彼が眠っている時、暗い顔をして彼を見ていた。仙界でもみんながケリルをキイヴァンと思っていた。キイヴァンの妻である「蜜の髪」のマルヴィンさえも彼をキイヴァンと思った。
 こうして一年が過ぎたのであった。
 その年の四分の三ほどの月日がすぎる頃、ドルカは苔の枕に蛇を入れた、そしてキイヴァンの傍に寝ていて彼が死ぬのを見ようとした。しかし激しい虫族《むしけら》は自分と同じ異類の彼を知っていて、キイヴァンの耳に囁いた。その囁きが夢となった。キイヴァンは目をさまして、壁から孔のある蘆《あし》を取って笛吹いた、笛が沈黙と静寂のなかにドルカを眠らせた、蛇は乳のような白い歯でドルカの白い胸を傷つけた、その小さい赤い一点のためにドルカは死んでしまった。
 その一年の四分の三の月日がまだ廻って来ない頃のこと、ケリルは長い猟から帰って来て「蜜の髪」のマルヴィンの側に寝ていた、その時キイヴァンの妻は立って行ってフェルガルに相図した。月の上ぼる時であった。フェルガルは樫の大木のかげに立っていた、弓はひき絞られて虻のような声をして風に唸っていた、その弓に一本の矢がはさまれて、矢には、月の上ぼる時刻にはダナの神たちも恐れるという蝙蝠《こうもり》かずらの毒が塗られてあった。
 しかし、キイヴァンの耳にささやいた蛇はこの事も囁いてきかせた、キイヴァンは笛の音に寄せてケリルの心に夢を送った、こうして漂《さす》らいの王は夢を見た、そしてその夢を神託《しらせ》と知った。彼は起き上がって自分の緑色の上着をマルヴィンに着せてやり、月の金いろが三度の変り目になったかどうか見てくれと言った。マルヴィンは外を見た。フェルガルの矢が彼女の胸ふかく入った、蝙蝠《こうもり》かずらの毒が彼女の心まではいって彼女は死んだ。
 フェルガルは低い声で笑いながら近くまで来た。
「仙界《フェヤリイ》に哀哭《かなしみ》があるだろう、しかし蜜の髪のマルヴィンよ、今からあなたは私の妃だ」フェルガルが言った。
「そうだ」ケリルはマルヴィンの胸から矢を抜き取った「仙界《フェヤリイ》に哀哭《かなしみ》があるだろう」
 ケリルはそう言いながらフェルガルに矢を投げつけた、矢がフェルガルの眼に当った、彼は暗黒《やみ》と静寂《しずけさ》を知って息が絶えた。
 あかつきに仙界の人たちは二人を葬った、ながれる水の底のくぼ地に、下流にむけて二つの平たい石を二人の上に載せて。
 その夜ケリルは一人で坐していた。過ぎ去った日の夢が彼と共にあった。彼はひどくむかしを恋しく思った。
 一人の女が彼の側に来た。女は宵の明星《ほし》の光をまぜた月の輝きのように白く美しかった。髪は長い温かい午後の日の影のように濃く柔らかであった。眼はかわせみの羽よりもっと濃い青色で、眼のなかの光は草の花にかかっている露のようであった。手は真白で、その手で小さい金の琴を弾くと、それが月光のなかの海の波の泡のようだった。青い草の中に女の足がうごいた、さまよえる百合の花のように。
 彼女はケリルのために一つの歌を弾いてくれた。
 それが何ともいい尽されず美しかったので、ケリルの生命がもうひと息で絶えそうになった。
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「むかしを恋うる歌」女が言った。その声は白いクローバの花の上のあけ方の空気《かぜ》の渦巻のようであった。
 ふたたび彼女が弾いた。その楽の音の激しさには、楯にぶつかる剣のあらしの音のように、血が彼の心に鳴りひびいた。
「この歌は何の歌」彼が訊いた。
「欲望《ねがい》の歌」女が言った。その声は深林によりつどう風のようであった。
 三たび彼女が弾いた。その楽の音にケリルは聞いた、大洋の波が連山の項きの雪を浸す音を、地の白き汁と青き奇観《めずらしさ》が火焔の中にながれ入る音を、そして日と月とのあいだの雪のような星群の無限無数のあらしの音を。
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「愛の歌」女が言った。その声は一輪の花のしずかな息のようであった。
「私の名はエマルといいます、また来ましょう。あなたは私の欲望《のぞみ》、そして私のたった一つの愛です」女がささやいた。
 しかしケリルはもうそれきり彼女を見ることもなくてケリルの城に帰った、キイヴァンももとの姿になって再び仙界に戻って行った。
 ある日、ケリルが樫の木の円盤に短剣を投げている時、彼は一人の女を見た、彼がまだ今日まで見たことのないほど美しい女であった。彼女はちょうどエマルぐらい美しかった。しかし彼女の美は人間の女の美であって、露と月の光のかげにある人たちの美ではなかった。
「うつくしい人、あなたは誰です、そして何処から来ました」ケリルが訊いた。
「私はエマルです」彼女が言った。彼女はケリルの愛を求めた、ケリルは彼女を妃とした。
 婚礼の宴で、見知らぬ人が立ち上がった。
 その人は手に持っていた杯を下に置いた。物いう時、その声は壁にかけた楯の上にひびく遠い角笛の音のようであった。
「私は贈物を項きたい」その人が言った。
「よそぐにの人に求められれば、どのような贈物でも上げるのが私の誓いです」ケリルが言った。
「私は仙界《フェヤリイ》のバルヴァというもの、むかしエマルは私に愛を与えました。私は贈物としてエマルを求めます」
 ケリルは立ちあがった。
「私の生命を取って下さい」ケリルが言った。
 エマルは彼の側に来て「それはいけません」と言って、バルヴァの方に振りむいた。
「今日から一年経ってまた此処に来て下さい」
 そう言われてバルヴァは微笑した、そしてその一年の猶予をあたえて立ち去った。
 その一年にケリルとエマルは愛の深さと不思議さを知った。
「私は行かなければなりますまい、しかし、また帰って来ましょう」その日が近づいて来た時彼女はそう言った、そしてケリルに一つの方法を教えた。
 バルヴァが再び訪ねて来てエマルを連れて行った日のたそがれ時、ケリルは草の露を瞼になすりつけ、榛《はしばみ》やロワンの樹のほそ枝でより曲げられた杖を造った、そして蘆《あし》の笛をふく盲目の乞食になって、月の昇ろうとする頃出て行った。
 ケリルがバルヴァとエマルのところまで来ると、バルヴァが言った。
「盲人よ、うつくしい笛の音だ。もしその笛を私にくれるなら、お前の望みの物を何でもやる。これが私の誓いだ、もし私が笛にしろ鷹にしろ猟犬にしろ女にしろ人に求めた時は私は先方の望みの物を何でもやる」
 ケリルは笑った。彼はつぶっていた目を見ひらいた。
「エマルをくれ」彼が言った。
 その後の一年間、ケリルとエマルは深い歓びを知った。
 産のくるしみが彼女に来た夜、ひと吹きの風が彼女の寝ているところを襲った。うまれた子は一枚の枯葉のように何処ともなく吹き去られてしまった。ケリルは怒りと悲しみに悶《もだ》えていたが、エマルは一言も物いわなかった。あけがたになろうとする頃、彼女は夢を見ていた。
 あけがた、一人の若者が二人の傍に来た。若者はケリルが今までに見た美しい人たちの中の誰よりも美しかった、バルヴァよりも美しく、キイヴァンよりも美しかった。若者はみどりの森の中から来る春のように現われて来た。
「時が来ました」若者はエマルを見ながら言った。
「時が来ました」ふたたび彼はケリルを見ながら言った。
「この美しい年をかさねた青年は何者」ケリルが問うた。
「これは昨夜うまれた私たちの子のエイリル」エマルが答えた。
 エマルは立ってケリルの脣《くちびる》に接吻した。
「愛する人間の世の恋人、さようなら……」彼女が言った。
 エイリルはむかしケリルがエマルを取り返した時に吹いた蘆笛《あしぶえ》をとり出してケリルの上に老年を吹いた。ケリルは髪もしろくなって楡《にれ》の葉のようにかれがれになった。ケリルが殆ど影ばかしになった時、エイリルの笛はその影のもとの影を吹き去った、ついにはかない息が風のまにまに消えた。

2012年3月15日木曜日

わが心の女


僕がこのQ島に来てから二週間の見聞は、すでに三回にわたつてRTW放送局へ送つたテレヴィによつて大体は御承知かと思ふ。僕の滞留許可の期限は明日で切れるのだが、思ひがけぬ突発事故のため、出発は相当延びることになりさうだ。その突発事故といふのは、第一には僕を襲つた恋愛であり、第二には、昨日この島に勃発《ぼっぱつ》した革命騒ぎだ。島の政府は、それを反革命暴動と呼んで、規模も小さいし、もはや鎮定されたも同様だと、すこぶる楽観的な発表をしてゐるけれど、僕の見るところでは、事態はさほど簡単ではないやうだ。
 ともあれ、革命騒ぎのため、電波管理は恐ろしく厳重になつた。殊《こと》に外国人は一切発信の自由を奪はれ、僕の携帯用テレヴィ送信器も一時差押へをくつてゐる。空港はすべて、軍用ないし警察用の飛行機のほか離着陸を禁止された。僕は手も足も出ないのである。そこで僕は、密航船といふ頗《すこぶ》る原始的な手段に、この通信を託することにする。もつともそれだつて、きびしいレーダ網を果して突破できるかどうか。万全を期するため、ついでにコピーを一通つくつて、壜《びん》に密封して海中に投じることにしよう。この早手廻しの遺書(?)が、結局無用に帰することを僕は祈る。失恋と革命騒ぎと――この二重の縛《いま》しめから、明日にも解放されんことを僕は僕のために祈る。
 僕がこの島にやつて来て最初の十日ほどの間に味はつた驚異については、僕は既に三回のテレヴィ放送で、かなり実証的に報告しておいたはずだ。まつたく、北緯七十五度、西経百七十度といふ氷海の一孤島に、突然RTW局の特派員として出張を命ぜられた時には、家族よりも僕自身の方がよつぽど色を失つたものである。しかも季節は、われわれの暦によれば十一月の末であつた。僕は生まれつき頗《すこぶ》る寒さに弱い体質である。しかし報道記者としての僕の野心は、つひに一切の顧慮や逡巡《しゅんじゅん》にうち勝つた。僕は意を決して、あの冷雨の朝、Q島政府差廻しの成層圏機の客として、(おそらく甚《はなは》だ悲痛な顔をして)ハネダ空港を飛び立つた。そのとき君は、温室咲きの紅バラを一籠《ひとかご》、僕にことづけたつけね。Q島の大統領に贈呈してくれといふ伝言だつた。この伝言は、しかし残念ながら果すことができなかつた。それには次のやうな事情がある。
 バラが冷気で枯れたのではない。それどころか、機中の完全な保温装置と、僕の熱心な灌水《かんすい》とによつて、バラは刻一刻と生気を増して行つたのだ。ところが驚いたことには、北緯七十三度を越えたと機中にアナウンスされた頃から、君の紅バラはみるみる醜い暗灰色に変色しはじめた。すでに飛行機はいちじるしく高度を低めて、人も植物も、Q島の放射する強烈な原子力熱気の圏内に入りはじめたのである。
 まもなく、Q島南端の空港に着陸したとき、防疫検査は峻烈《しゅんれつ》をきはめた。君に委託されたバラは、その時すでに暗灰色の花びらに黒褐色の斑点《はんてん》をすらまじへて、およそグロテスクを極めてゐたが、僕は敢然として防疫吏の前に、これは日本北岸原産の麝香《じゃこう》バラといふ珍種である旨《むね》を主張してゆづらなかつた。防疫吏は僕の主張を一笑に附して、このバラは既に枯死して久しいと宣告した。そして両の手のひらで花びらをもむと、事実バラの花びらは、石灰のやうに飛散してしまつた。僕は恥ぢ入つた。
 さて僕はといふと、この峻烈かつ炯眼《けいがん》な防疫吏の手で、全裸にされた。頭髪、胸毛、恥毛など一切の毛髪も、薬物によつて脱去され、全身消毒ののち、透明な衣服を与へられた。それは下着から上衣《うわぎ》やネクタイに至るまで、悉《ことごと》くガラス繊維で織られたものであるが、かなり柔軟性があつて、着心地は悪くない。僕はQ国の国是《こくぜ》たる透明主義の洗礼を、まづここで受けたわけである。ついでに記しておけば、Q国の制服は男は無色透明、女は淡青色透明のガラス服であつて、一さい除外例を認めない。
 僕は日本人として、勿論《もちろん》すこぶる当惑と羞恥《しゅうち》を感じ、せめて黒色ガラスの服を与へられたいと抗弁これ努めたが、無駄であつた。のみならず、僕が必死になつて叫び立てた「黒」および「羞恥」といふ二語は、いたく係官の心証を害したらしい。彼らは暫《しばら》く何事か協議した。ファシスト? 狂人? などといふ囁《ささや》きが僕に聞えた。しかし結局、滞留許可証は与へられた。滞留場所は、HW一〇九Pといふ指定である。
 君はこのHW一〇九Pといふのを、どんな場所だと思ふか? 僕が先日の放送で、それを極楽にも比すべき豪壮快適なホテルとして紹介したのを、恐らく君は記憶してゐるだらう。だがあれは、プレスコードの勧告に従つたまでのことで、実は病院――しかもその精神科だつたのである。僕がひそかに盗み見た僕のカルテには、封建主義的|羞恥《しゅうち》症と記載してあつた。さして重症でなかつたものか、それとも山羊《ヤギ》博士の治療が卓抜であつたせゐか、僕は三日ほどで全快を宣せられた。さてそこで僕は、ホテル住まひの身になれたか? 断じて否《いな》。僕が次に居住を指定された場所は、同じ病院内の、なんと産婦人科であつた。
 全く、なんといふ侮辱だらう。僕の忿懣《ふんまん》はその極に達したが、今度も抗弁は無効であつた。僕は科長である鰐《ワニ》五郎博士、および研究室附きの若い看護婦、鶉《ウズラ》七娘に引渡され、病棟内の小部屋に収容された。
 改めて言ふまでもなくQ国の家屋は、その国是《こくぜ》に則《のっと》つて、礎石と鉄骨を除くほかは壁も床も天井も屋根も、全部が無色の透明ガラスである。カーテンや家具や食器も、やはり同様である。病院建築にしても、無論その例外ではない。もつとも技術的ないし人道的な見地から、特例として局所的な遮蔽《しゃへい》の行はれる場合もある。つまり分娩《ぶんべん》とか掻爬《そうは》とかの、苦痛や惨忍性を伴ふ場合がそれであつて、この時は手術台なり分娩台なりを、到底肉眼の堪へぬほど強烈な白熱光をもつて包むのである。ただし患者および施術者に限つて、特殊な黒|眼鏡《めがね》の着用が許される。つまり光を以て光を制するわけで、この遮蔽法は頗《すこぶ》る透明主義の理想にかなふものと言はなければならぬ。(ちなみにこの遮蔽法は男女間の或るプライヴェートな交渉の場合にも、当分のあひだ[#「当分のあひだ」に傍点]適用を許されてゐる。)
 さて、僕の収容された室《へや》の両隣りはガラスの壁を境に手術室であり、ガラスの廊下をへだてた向うは診察室であつた。そこで僕は、眼のやり場に窮して、神経衰弱になつたか? 断じて否。僕はここに於《おい》て、はじめて病院当局の意の存するところを知つた。僕が産婦人科に収容されたのは、つまり羞恥症の快癒状態を実地によつて検証するためであつたのだ。僕はこのテストにパスして、一週間後には解放されるはずであつた。
 僕がこの二度目の入院中に見聞したことで、書きもらしてならぬことがある。それは女性を「女性」から解放する研究が、すでにこの国ではかなり進んでゐることである。それは煎《せん》じつめれば、出産を全免ないし禁止することでなければならない。精子と卵子との試験管内における人工交配は、すでにQ国では一般化されてゐるけれど、それでもまだ遊戯的な恋愛の結果たる姙娠《にんしん》現象は、必ずしも減少してはゐないと言はれる。それは現にこの鰐博士の分娩室や手術室が、日々相当の賑《にぎ》はひを示してゐることでも明らかだ。これに対しては専門家の間で、幾つかの根本的研究が進められつつある。例へば山羊博士は、去精の男性一般に及ぼす悪影響の除去について研究中である。これに反して鰐博士は、むしろ子宮や乳房《ちぶさ》の自然退化を促進する方を捷径《しょうけい》と見て、既に三十年をその研究に費《ついや》して来た権威者である。そして僕の見るところでは、鶉《ウズラ》七娘といふ看護婦は、主としてこの方面の研究の助手および恐らくは実験台をも勤めてゐるらしかつた。けだし僕は二人が研究室にこもつて、二人きりで例の白熱光幕に包まれるのを屡々《しばしば》見かけたからである。
 さういふ時、博士はよく「阿耶《アヤ》、阿耶《アヤ》」といふ絶叫を漏《も》らした。僕はそれを、博士が感きはまつて口にする彼女の愛称かと思つたものである。それとも、それはQ語の単なる感嘆詞だつたかも知れない。僕はひそかに嫉妬《しっと》を感じた。阿耶は楚々《そそ》たる美しい娘であつた。淡青色のガラス服を透して見えるその胸には、みづみづしいつぶらな乳頭がぴんと張つてゐた。それはまだ些《いささ》かも退化の兆候を示してゐなかつた。僕はそれを見るたびに、何かほつとするのだつた。
 僕はすでに外出を許されてゐた。嫉妬を紛らすため、僕はよく外出した。中央公園の素晴らしさについては、既に僕の送つたテレヴィで御承知のことと思ふ。やがて十二月に入らうといふこの氷海の孤島の公園は、ありとあらゆる熱帯|蘭《らん》の花ざかりである。その間に点々と、竜眼《りゅうがん》やマンゴーなどの果樹が、白や黄いろの花を噴水のやうにきらめかせてゐる。星形をした大きな池には、赤|蓮《はす》や青蓮が咲きほこり、熱帯魚がルビイ色の魚鱗《ぎょりん》をきらめかせてゐる。樹間には極楽鳥の翅《つばさ》がひるがへり、芝生には白|孔雀《くじゃく》が、尻尾《しっぽ》をひろげて歩いてゐる。
 公園には博物館もあつた。陳列品の中で思ひがけなかつたのは、ミイラの夥《おびただ》しい蒐集《しゅうしゅう》であつた。非常に保存がよく、繃帯《ほうたい》まで原態をとどめてゐるのも少なくなかつた。その中で特に、赤膚媛《アカラヒメ》と標記された若い女性の一体と、片氏月姫《ガシグツキ》と標記された一体とが、著《いちじ》るしく僕の注目をひいた。前者は日本|奥羽《おうう》地方出土とあつて、豊かな乳房がありありと面影をとどめてゐる。後者は天山南路出土とあつて、下腹部の隆起がどうやら子宮の厳存を思はせた。
 僕はまた、ほとんど毎晩のやうに、一流の劇場のボックスに納まつた。そこでは、盛装を凝らした紳士淑女の姿に接することができる。盛装とは言つても、もちろん男子服はあくまで無色透明、婦人服は淡青色透明のガラス織であることは変りはない。その代り様々のアクセッサリーの趣向にかけて、特に女性は恐らく世界最高の洗煉《せんれん》に達してゐると称していいだらう。例へば某高官の美しい夫人は、臍窩《せいか》にダイヤモンドを嵌《は》めこんでゐる。
 紅、黄、紫、藍《あい》、黒などの、禁ぜられた衣裳《いしょう》を着用できるのは、舞台上の扮装《ふんそう》の場合だけである。それも概して半透明ガラス織を限度とするが、ただ例外として特殊のショウには、不透明の衣裳の使用が許されてゐる。ある運命的な晩、僕は図らずもその種のショウを観た。そして「彼女」を「発見」したのである!
 それはストリップ・ショウで当りをとつてゐる小劇場であつた。舞台の中央から、跳込《とびこみ》台のやうなものが観客席へ突き出してゐる構造も、わが国などと同じである。はじめ僕は、このショウに大した期待を持つてゐなかつた。全く、平生《へいぜい》透明ガラスの衣裳で歩いてゐる女たちが、それを脱がうと脱ぐまいと同じことではないか。ところが幕があくに及んで、僕は自分の不明を謝さなければならなかつた。Q国でストリップといふのは、逆に衣裳《いしょう》を重ねることだつたのである。
 フランス王朝風、支那《しな》宮女風、カルメン風、歌麿《うたまろ》風など、あらゆる艶麗《えんれい》または優美の限りをつくした衣裳が、次々に舞台の上で、精妙な照明の変化のまにまに、静々《しずしず》と着用されてゆくのであつた。着け終ると、舞踊が始まり、つひにプリマドンナが橋がかりの突端まで進み出て、妖艶《ようえん》きはまるポーズを作る。われわれの眼からすれば、ファッション・ショウにすぎないものを凝視する観客席の緊迫感は、真に異常なものがあつた。
 つひに最後の幕が来た。それは日本の王朝時代に取材したショウであつたが、はじめのうち幽暗であつた照明が、次第に明るさを増して、やがてプリマドンナが現はれた時、観客の興奮は青白い火花でも散らしさうであつた。彼女はゆるやかに十二|単衣《ひとえ》を着け終ると、淡紫の檜扇《ひおうぎ》(もちろんガラス製であるが)をもつて顔を蔽《おお》ひながら、橋がかりへ歩を移し、そこで扇をかざして婉然《えんぜん》と一笑した。僕はその顔を見ておどろいた。それは彼女であつた。あの阿耶であつた。
 それを見てからといふもの、僕がどんな懊悩《おうのう》の日夜を送つたかは、くどくどしく述べる気力がない。一口に言へば、僕は嫉妬《しっと》と恋の鬼になつたのである。ある午後、僕は博士の不在を見すまして、猛然と彼女に迫つた。阿耶は拒まなかつた。二人は黒|眼鏡《めがね》をかけて、白熱光|裡《り》の人となつた。しかし僕は、いたづらに不能者たる自分を発見したにすぎなかつたのである。阿耶のからだは、まさにガラスのやうに冷めたかつたのだ。
「阿耶! お願ひだ……」と、僕はあへぎあへぎ哀願した。「今晩あすこの楽屋で……十二単衣すがたで……ね、いいだらう? 君は僕の……心の……」
「心の……ですつて?」と阿耶は、唇を反らして冷笑した。「なんていふお馬鹿《ばか》さんなの! 心の……十二単衣……」彼女は、水色ガラスのシュミーズを着ながら、嘲《あざけ》るやうに繰り返した。
「とても似合ふんだ。あれでなくちやいけないんだ。……ね、楽屋で、今晩……」
「およしなさい、みつともない! 第一この私に、そんな真似《まね》ができると思つて?『女性解放』青年同盟の執行委員の私に!」
「ぢや、なんだつて君は、あんな姿で舞台に立つたのだ?」
「わからない人! あれは男性の色情を馴化《じゅんか》するため、青年同盟が採択した方法なのです。ああして刺戟《しげき》の反復でもつて、男の脳中枢を麻痺させるんだわ。」
 僕は茫然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。危く白熱光を消さないままで、黒眼鏡をはづしかけたほどである。がその時、病院の中庭で、けたたましい銃声が立てつづけに響いた。自動車の爆音がきこえ、やがて大勢の足音が、入り乱れて廊下をこつちへ近づいて来た。僕たちが研究室へ飛びこむと同時に、廊下のドアから、顔面|蒼白《そうはく》の鰐博士が駈《か》けこんで来、あとから黒い影が二つ、風のやうに押しこんで来た。
 影たちの手にはギラギラ光るピストルがあつた。
 それが一斉に火を吐いた。鰐博士はばつたり倒れた。
「反動……革命だ……」といふのが、その唇をもれた最後の※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]《ささや》きであつた。阿耶は僕の胸のなかで失神した。
 僕は二人の下手人《げしゅにん》を見た。そして、それがあの博物館にあつた赤膚媛、牙氏月姫といふ二体のミイラに他ならぬことを認めた。一人は乳房《ちぶさ》を揺り立てて笑ひ、もう一人はこれ見よがしに子宮部を突き出して哄笑《こうしょう》した。と、さつと身をひるがへして、再び風のやうに走り去つた。……

 噂《うわさ》によると、反乱はまだ続いてゐるさうである。もはや市中には銃声は聞えないが、急速に地方へ波及しつつあるらしい。その首謀者は、二三の高級軍人の夫人たちだとも言ふが、真偽のほどは判明しない。
 きのふ僕は阿耶の葬儀に列した。弔砲《ちょうほう》が鳴つて、非常な盛儀であつた。あのまま息を引きとつた彼女の顔は、ガラスの棺《ひつぎ》のなかで白蝋《はくろう》のやうに静かであつた。僕は純白の花束を、人々の後ろから墓穴のなかへ投げてやつた。さらば、わが心の女よ!