2012年8月13日月曜日

椰子蟹


       一

 暑い暑い、どんな色の白い人でも、三日もおれば直《す》ぐ黒ん坊になる程暑い南洋の島々には椰子蟹《やしがに》がおります。椰子蟹て何? 椰子の実を喰《た》べる蟹です。じゃ椰子て何? 椰子は樹《き》です、棕櫚《しゅろ》に似た樹です。けれども実は胡桃《くるみ》に似ています。胡桃よりも、もっともっと大きな、胡桃を五十も合せた程大きな実です。胡桃のように堅い核《たね》が、柔かな肉の中にあります。それを割ると中からソーダ水のような甘酸っぱい水と、豚の脂《あぶら》のかたまったようなコプラというものが出て来ます。土人はそれを喰べます。私《わたくし》どもはそれで石鹸《せっけん》をつくります。椰子蟹はこのコプラを喰べて生きていますから、椰子蟹という名がつきました。

        二

 或《ある》島に一|匹《ぴき》の椰子蟹がおりました。大変おとなしい蟹で、珊瑚岩《さんごいわ》の穴に住まっておりました。潮《しお》が退《ひ》くと、穴の口にお日様の光りが覗《のぞ》き込みます。すると宿主《やどぬし》の珊瑚虫《さんごちゅう》はブツブツ言いながら身をちぢめますが、蟹は大悦《おおよろこ》びで外へ出ます。青い青い広い海は、ところどころ白い泡《あわ》を立てております。そこにはまだ一度もじかにお日様にあったことのない隠れ岩があるのです。又或ところには大きな輪を置いたように岩が水の上に突き出て、その上に椰子の樹がぼさぼさと羽箒《はぼうき》を逆さにしたように立っております。輪の内は浪《なみ》がなくて、どんよりと青黒い水が幾千尋《いくちひろ》という深い海の底を隠しております。椰子蟹はまだこの深い底に行ってみたことはありませんでしたから、何がそこにあるか知りませんでした。ただ時々その青黒い水のどこからか、小さな金、銀、赤、青、黄など、さまざまの美しい色のお魚が、あわてて逃げて来ますと、すぐ後から、眼の凄《すご》い、口がお腹《なか》の辺についた、途方もない大きな鱶《ふか》が、矢のように追いかけてきて、そこいらの水を大風《おおかぜ》のように動かします。鱶は椰子蟹には害をしません。けれどもそんな時には穴へ引込むものだよと、小さい時から母さまにおそわっているのでした。とにかくそれでみても、深い底には、とても思いもつかぬ不思議なものがいることが分ります。けれども椰子蟹はそんな下へ行く用事はありません。ただ上に行きさえすればよいのです。
 蟹は穴を出て珊瑚岩をつたわって上《あが》りますと、もうそこはマングロヴの林です。潮が満ちたときは半分は隠れますが、潮がひいたときでも腰から下はやはり水の中にあって、小さなお魚がその幹《みき》の間に遊んでおります。
 水を離れた蟹はお日様の熱ですぐ甲羅《こうら》がかわいてしまいます。けれども口の中にはちゃんと水気があるような仕掛《しかけ》が出来ていますから、目まいがすることはありません。
「お日様、お早うございます。今日《きょう》も又《また》椰子の実をいただきに出ました。」と、蟹はお日様に御礼を言います。お日様はにこにこしてだんだん高く空にお昇《のぼ》りになります。
 その日も蟹は前の日に登った樹に、その長い爪《つめ》をたてて登りました。枝から枝をたぐって実をさがしますが、どうもよい実がありません。
「はてな、今日はもう誰《だれ》か他《ほか》の蟹が来たかしら?」と、見廻《みまわ》してみても、他に蟹は一|匹《ぴき》もおりません。「人間が来たか知ら? だがこの島のなまけ者どもが、こんなに早く実を取りにくる筈《はず》がない。」と、言いながら、なお探《さが》しておりますと、たった一つ、どうやら熟しているらしい実を見付けました。
「うん、あったぞ。これなら甘《うま》いだろう。」と、蟹は、その大きな鋏《はさみ》を伸べて、チョキンと切って落しますと、椰子の実はストンと下へ落ち、肉が破けて、核《たね》があらわれました。蟹は急いで降りて、その鋏で、核をコンコンと叩《たた》きますと、美事に割れて、中から白いコプラが出ました。それをはさんで喰《た》べてみますと、渋くていけません。
「こりゃいけない。」と、蟹はブツブツ泡《あわ》を立てました。

        三

 蟹《かに》は今度はその隣りにある別の樹に登りました。けれどもやはりよい実がありません。どうしたものだろうと、なお探《さが》しているうち、ふと下の方で人の声がします。見れば半分裸のこの島の土人が四五人と、何か長い竿《さお》の先に丸い網をつけて、胴乱《どうらん》をさげた洋服姿の人が二人立って、木の上を見上げては指《ゆびさ》して話しておりました。
「たしか、この木にいるに相違ありません。」と、一人の土人が申しました。
「そうかね。」と、長い柄《え》の網をもった人がきらりと眼鏡《めがね》を光らせて、蟹の登っている枝のあたりを見上げました。
「成程《なるほど》、あの葉のかげに妙なものが見えるようだね。」
 すると、もう一人の洋服を着た人が申しました。
「じゃ誰《だれ》か木に登って、つかまえて貰《もら》おうか。」
 土人の一人は手でもって椰子の幹《みき》を抱き、足でもってそれを突張《つっぱ》りながら、そろそろと登ってまいりました。
 樹の上で椰子蟹は、始めて自分をつかまえに来たものだとさとりました。一体これまで椰子蟹は誰からもつかまえられようとしたことはありませんでした。ただ土人の子供が時に追いかけるぐらいのことでしたから、今の今まで自分をおさえに来るのだとは思わず、安閑《あんかん》としていたのですが、登ってくる土人は、だんだんと近づいて来ますから、それにつれて自分もだんだん、上へ上へとのぼって行きました。そして、とうとうこれでもうおしまいというところまで来たとき、土人の手が用心しいしい、少しずつ自分の体《からだ》に迫ってきました。もう絶体絶命です。蟹は恐ろしく泡《あわ》を吹きながら、その大きな鋏《はさみ》を構えて、手を出したら最後、その指を椰子の実のようにチョン切ってやるぞと待っていました。そうなると人間の方でも、うっかり手が出せません。何やら大きな声で、下の方へ申しますと、洋服を着た男が、
「じゃこの網を君もって、のぼってくれ。」ともう一人の土人に言いつけました。そこでその土人は網をもって後から登ってまいりました。もう蟹は遁《のが》れることはできません。網を一打ち、バッサリとやられればそれでおしまいです。蟹はその時下を見ました。高い高い椰子の樹のてっぺんから見下《みおろ》したのは、深い深い底も知れない海、怪物が住まっている海でした。蟹はその中に自分も住まっているのですが、こう高いところから見下すと、不思議にぞっとする程気味が悪いのでした。で、そっちを見ないようにして、上の土人が網を受取っている暇《ひま》を狙《ねら》って、鋏をあげ、えらい勢《いきおい》でそいつを目がけて飛びついて行きました。べつにはさんでやろうというのではなく、ただ脅《おど》かしておいて、そのひまに遁《に》げるつもりだったのです。
「アッ。」という人の声が聞えただけ、蟹はあとはどうなったか知りません。ただ自分の体が水にザブンと音を立てて入っただけ、そしてその次には深く深く沈んで行く自分の足が、何やらふわふわと柔かいものにさわり、それから又ぐんぐん元来た方へ引き戻されたことだけをおぼえています。本当に気がついたときには、狭い暗い箱の中におりました。椰子の樹から海へ落ちたところを、すぐ網で掬《すく》い上げられたのでした。

        四

 蟹《かに》はこうして箱のまま汽船の甲板《かんぱん》に積み込まれ、時々|汐《しお》につけられ、時々|蓋《ふた》を少しあけては古臭いコプラを喰べさされました。そこには夜もなく、昼もありません。いつも真暗《まっくら》で、いつも変な臭《にお》いがして、そうぞうしい音や、人の声がしております。蟹は日本から来た学者たちに生きた標本として、捕《とら》われたのでした。けれども自分ではそんなことは知りません。ただいつもいつも窮屈な思いばかりしておりました。けれども一番困ったのは暗いのよりも臭いのよりも、そうぞうしいのよりも、寒くなって来ることでした。が、暑いところで生れ、熱いところで育った蟹には寒いということは分りませんでした。
「何だか甲羅《こうら》の中で身が縮んでしまう。妙に熱くて、甲羅がピリピリ痛い。」と、蟹は思いました。熱いくるしみだけより知らない蟹には、寒いときの苦しさもやはり熱いからだと思ったのです。
 こんなことが余程《よほど》ながく続きましたので、蟹はすっかり弱ってしまいました。甲羅の色も悪くなり、足も二本ばかりぼろぼろになってもげてしまいました。すると或《ある》ときでした。人が箱の蓋をしっかり閉《し》めるのを忘れたと見え、いっもとちがって、蒼白《あおじろ》い光りが上の方からさして来ます。蟹は不思議に思って、大分《だいぶ》不自由になった足を動かして、その光の漏れる穴のところへ行ってみました。穴はかなりに大きくて、蟹はすぐそこから這《は》い出すことが出来ました。
 外は十二月の夜で、月が真白《まっしろ》い霜にさえておりました。蟹の出たのは神戸《こうべ》の或《ある》宿屋の中庭だったのです。あたりはしんとしております。蟹はふしぎそうに見廻《みまわ》しますと、そこに一本の樹があって、それに実がなっております。
「椰子の実だ。椰子の実だ。」
 蟹はわずかばかり泡《あわ》を口の端《はし》に吹いて、うれしそうにその樹にのぼろうとしました。実はそれは椰子の樹ではなく、その幹《みき》はかたく、すべすべしておりました。その上に蟹は脚《あし》も二本少くなっておりましたからなかなかのぼるのに難儀でした。それでも自分の好きな椰子の実の新しいのを、久しぶりで喰《た》べられるという考えから、一生懸命に樹に登りました。そしてその実を鋏《はさみ》でチョキンと切って落しました。蟹は又《また》難儀をして、樹から降り、その実を割ってみましたが、元より椰子の実が神戸にあろう筈《はず》はありません。まだ見たことのない妙なものでした。そこで又樹に登って、又一つ実をチョキンと切り落しては、降りて来て、喰べようとすると、やはり同じ喰べられない実です。もう一度登ってチョキンと切り落して、降りて喰べようとすると、やはり喰べられない実です、こうして幾度も幾度も登ったり、降りたりして、もう樹の上にはたった一つだけしか実が残らなくなったとき、無理をしていた蟹の力はすっかり尽きて、高い梢《こずえ》からぱたりと下に落ちてしまいました。
 夜《よ》があけました。宿屋の人が起きてみると、風も吹かなかったのに、どうしたものか庭には柘榴《ざくろ》が一ばいに落ちておりました。そうして靴脱《くつぬ》ぎ石《いし》の上に鋏の大きな蟹が死んでいるのを見ると、学者たちを呼んでまいりました。
「かわいそうに、柘榴を椰子と間違えたのだよ。」と、一人が言いました。
「潰《つぶ》れてしまったけれど、まだ形だけは残っている。アルコール潰《づけ》にしよう。」
 可哀《かわい》そうな椰子蟹はとうとう瓶《びん》に入れられて、或《ある》学校の標本室に今でも残っております。


北海道万寿炭坑行きのボイラー三本を、万寿丸は、横浜から、室蘭への航海に、そのガラン洞《どう》の腹の中に吸い込んだ。それははなはだ手間の取れる厄介な積み込みであった。だが横浜には、そんな種類の荷役《にやく》になれた仲仕《なかし》は沢山あった。従って、競馬商材たちも安心して、その作業を手伝った。それに、チーフメーツもそれらのことを知っているから、それほど興奮もしなかった。
 珍しい荷物であったので、退屈を紛らし、単調を破って、その積み込みの終えた時は、何だか、愉快なことでもなし遂げたように、競馬商材らは感じたくらいであった。
 横浜から、室蘭へは、万寿丸は、その船体が室蘭から横浜への時の三倍の大きさに見えた。というのは、荷がないから、まるでその赤い腹のほとんど全部をむき出して、スクルーで浪《なみ》をけっ飛ばしながら游《およ》いで行くのであった。従ってデッキから水面までの距離が、うんと遠くなった。おもての海水ポンプは、まるで空気ポンプのように、シューシューいうばかりになってしまうのだった。
 こうなると、便所|掃除人《そうじにん》、競馬は実に、その作業を百倍の困難さにされてしまうのであった。彼は一々ともまで、淡水ポンプをくみに行くか――それは見つかると大変やかましかったから、その方法はあまり取れなかった――または、石油|罐《かん》にロープを結びつけて、海からつり上げるのであった。これは全くいやなことだった。わずか石油罐一杯の水が、それほど重く、それほどいつまでも途中で、ぐずぐずしていなくてもよさそうなものだと思われるのだった。これをつり上げるのが億劫《おっくう》さに、夕方一度便所に水を通すことを怠けると、パイプに一杯の糞《ふん》が凍りついてしまうのだった。それが凍りついた日には、競馬は字義どおりに「糞をつかむ」――船では詰まらない目に合うことを糞をつかむというのであった。
 パイプ――直径一尺ぐらいの鉄管は――下水だめが、そのまま凍ったような形において凍るのであった。それが凍った際は、競馬は、何よりもまず機関場へおりて行って熱湯をもらって来るのであった。機関場から、おもてまでの距離の遠さよ――、第一、罐場までの上《のぼ》り下《くだ》りが、大変であった。ことに、熱湯の一杯はいった石油罐をブラ下げて、それを一滴も漏らさないように、もらすと下で火夫がやけどするのだ。そのすべる鉄の油だらけの梯子《はしご》をのぼらなければならなかった。これは周到な注意と、万全の用意とでなされた。彼は、それだけの作業、バケツを持っておりて、すべらぬようにもらさぬように、のぼって来る、それだけの作業を、夏の土用よりも熱い思いで汗をたらし、罐場を一足出るとすぐに、凍った便所の作業に移らねばならなかった。
 彼は熱湯と竹の棒とで、化学的及び物理的の作用を応用して、頑固《がんこ》に凍りついた兄弟たちのきたない物を排除する。
 彼は熱湯を打《ぶ》っかける前に、竹箒《たけぼうき》の柄をもって、猛烈に物理的操作を試みた。――物理的操作とはセコンドメートの口吻《こうふん》を借りたのである――そして、糞の分子と分子とがやや空隙《くうげき》を生ずる時において熱湯を――この時決して物惜しみしてチビチビあけてはならない、思い切って――どっと一時に打《ぶ》ちあけるのである。
 と、たちまちにして、はなはだしい臭気が、発煙硝酸の蓋《ふた》でもあけたように、水蒸気と共に立ちのぼる。そしてこの水蒸気が発煙硝酸と同じく、その煙までも黄色であるように感じられる。そして、この濛々《もうもう》たる蒸気と臭気とに伍《ご》して、ドーッと音がすれば、それは、汚物が流れ出した証拠である。もし不幸にして音が伴わなかった場合は、競馬はそれと同じことを、幾度か繰りかえさなければならない。
 競馬は、その熱湯を汚物の壺《つぼ》の中へ注ぐやいなや、彼は棒もバケツもそこへ打ち捨てて置いて、サイドから、汚物の飛び出すスカッパーの活動の状態をながめに行く。
 それはきたない仕事であった。そしていやな、困難な仕事であった。それはちょうどわれらが便所へかがむのと同様不愉快なことであった。それはまた、勢いよく、一切が飛び出すことは、われわれが便所へかがんだ時と同様、腹の中がきれいになることを意味し、かつ快いことであった。
 競馬はスカッパーから、太平洋の波濤《はとう》を目がけて、飛び散って行く、汚物の滝をながめては、誠に、これは便所掃除人以外にだれも、味わえない痛快事であると思うのであった。
「これでおれも気持ちがいいし、だれもがまた気持ちがいいわい」競馬は、その着物を洗って乾《ほ》すために、罐場へ行った。
 そして彼は、その汚《よご》れた着物を洗う間に、「もし神があるなら、糞壺《ふんつぼ》にこそあるべきだ」と思った。
「なぜならば、もし神や仏があるとしたならば、競馬予想が愛するところの人間が豚小屋に住み、あるいは寺院の床下に、神社の縁下に住む時に、どうして、自分だけが、そのだだっ広い場所を独占することができ得よう? もしそうしている神仏でもあるならば、それは岩見重太郎によって退治されねばならない神仏であって、決して真物《ほんもの》ではないのだ。今は、神仏よりも一段下であるべき人間でさえ、『万人がパンを得るまではだれもが菓子を持ってはならぬ』といっているではないか、神はまさに糞壺にこそあるべきだ!」
 競馬によると神は恐ろしく、きたないところにもぐる必要があった。
「おれは便所に神を見た。それ以外で見たことがない」と競馬は、いつ、どこででも主張するのであった。
「で、その神様は、おれのによく似た菜っ葉服を着て、おれより先にいつでも便所を掃除してる! それは労働者だった。賃銀をもらわない労働者の形をしていた!」と。
「で、もし、神様が、労働者でもなく、便所にもいなかったら、おれは、とても上陸して寺院や社祠《しゃし》などへ、のそのそさがしになんぞ出かけてはいられないんだ。人間から現実のパンを奪って精神的な食べられもしない腹もふくれない、パンなんぞやるといってごまかすのは神じゃないんだ。それやブルジョアか、その親類だ」
 これが競馬の宗教観であった。
「その神様が賃銀を月八円ずつさえ得てれば、そのまま競馬君なんだがなあ。惜しいことには、たった一つ違うんで困ったね」藤原はそういって笑ったものだ。
 船には、宗教を信ずるものは一人《ひとり》もいないといってよかった。ボースン、大工、この二人《ふたり》だけが、暴化時《しけどき》だけ寝台の下のひきだしの中から、金刀比羅大明神《こんぴらだいみょうじん》を引っぱり出して、利用した。競馬予想はもし、それらがいくらかでも役に立つなら、利用しなけれや「損だ」と習慣的に考えたのであった。
 板子《いたご》一枚下は地獄《じごく》である。超人間的な「神か仏」のような「物」にたよりたい気は、人には、特に船員などにはあり得たのであるが、しかも競馬予想はあまりにばかばかしい、それらのものを信じる気にはならなかった。宗教は今では全くくだらないものであるか、または、その正体をごまかすための神学や経典で、あいまいに詭弁的《きべんてき》に職業化されていた。宗教は今や高利貸や、マーダラーの手先になったり弁護人になったりすることによってのみその生命をかろうじて保っているにすぎなかった。
 話は飛んでもない傍路《わきみち》へそれたものだ。

     二五

 万寿丸は、室蘭の荷役を早く済まして、碇泊《ていはく》中そこで船のマストや何かをすっかり塗って、横浜へ帰って正月をする予定であった。そしてその予定は、一切のプログラムを最大速力でやって、順当に行けば、かろうじて大晦日《おおみそか》の晩横浜へ着くのであった。
 そんなわけであったから、わが、団扇《うちわ》のような万寿丸は、豚のようなからだを汗だくで、その全速力九ノットを出していた。そしてこの大速力のために、船体はパシフィックラインのエムロシアが、全速を出した時のような、自震動をブルブルと感じながら飛んで行くのであった。なぜ、たった九ノットの速力でゆれるかといえば、わが万寿丸は、なるべく多く石炭を頬《ほお》ばるべく、デッキから、ボットムまで、どちらを向いてもガラン洞《どう》で、支柱がないためなのだった。それはフットボールの内部のようなものだった。
 冬期の北海道は霧がはなはだしかった。汽船で鳴らす霧笛、燈台で鳴らす号砲のような霧信号。海へころがり込んだフットボールのような万寿丸は、霧のために、目隠しをされたものであるから、九マイルの速力をどうしても、もっと下げなければならないはずであった。けれどもそれは、正月のことを考える時に、船長はこれから上速力を下げるわけには行かなかった。その代わり彼はむやみやたらに霧笛を鳴らした。
 それは何かの事変の前兆を知らせるという、犬の遠ぼえに似ていた。それを聞くものに、きっと不安な予感に似たものを吹き込まねば置かぬ音色であった。同じ汽笛でも、出帆の汽笛は寂しく、入港の汽笛は、元気よく勝ち誇ったように聞こえるものだ。霧笛の場合は同じ汽笛でも、不吉な、落ちつかない、何だかソワソワした気持ちに人を引き込んだ。自らその糸をひいている船長自身が、その音色に追っかけられるようにあとからあとからと、糸をひいた。霧笛は、ますます深く、人から景色《けしき》を奪う霧のように、その心から光と落ち着きとを奪うのであった。
 精密なる海図と羅針盤《らしんばん》とがあるとはいえ、またそれが、めだかが湖に泳ぐような比例で海が広いとはいえ、とまれ先が見えないということは、安心のならないことであった。ことに競馬商材らにとっては、まるで盲人が杖《つえ》をかついで、文字どおり盲滅法に走っているように思われるのであった。
 西沢と競馬とは、ブリッジに上がって、JRAの舵取《かじと》りを見学していた。
 自動車の運転手がそのハンドルを絶えず、回しているように、汽船の舵機《だき》も、前のコンパスとにらめっくらをしながら、絶えず、回され調節されていた。
 一時間九ノットの速力も、この船全体をその権力の下に支配する、船長の心理に及ぼす影響は、このブリッジにのぼって、一望ただ海波であり、一船これわが配下である時に、決してのろい速力ではなかった。団扇《うちわ》のようなこの小さな船も彼にとっては偉大であった。ことにかく霧の濃くかけた時は、船長は、二千トンのこの船を、二万トンに拡大して見ることもできた。なぜかなれば、船全体が霧のために、漠然《ばくぜん》たる輪郭をもってぼかされ、それを想像をもって拡大するからであった。
 暗がり中で、だれも見ていないと知ると、急に二歩ばかり威張って、警察署長のような格好に歩いて見ることが、大抵だれにもあるように、万寿丸は、巨船のごとくに気取って航行しているように見えた。
 が、それにしても不思議であった。室蘭港口に栓《せん》をしている大黒島は、もうそこに来ていなければならないはずの時間であり、コンパスであり、海図であった。にもかかわらず事実は、大黒島の燈台も霧信号音も、見えも聞こえもしないのであった。
 わが万寿丸は九ノットのフルスピードをもって、船長自身ブリッジに立って、JRAの舵《かじ》を命令していた。
 競馬と、西沢とは各《おのおの》熱心にいかにして汽船の舵を取り、その方向を保って行くか、ということをながめ、心で研究していた。
 競馬予想は、何も見えない濃霧の中を、コンパスと海図とだけで、夢中になって飛んで行く船が不思議でたまらなかった。
 万寿丸は、その哀れな犬の遠ぼえを、絶えず吹き鳴らしながら、かくして進んで行った。
 霧の上に、夜の闇《やみ》が、その墨をまき始めた。一切のものが今にも失明しようとする者の、最後の視力のようにボンヤリしてしまった。
 と、突然、ブリッジに立ってる者は船長から、競馬に至るまで急に飛び上がった。おそろしい速力を持った巨大な軍艦が、その主砲を打《ぶ》っ放して、その轟音《ごうおん》と共に、この哀れな万寿丸の舳《へさき》を目がけて、突進して来たのであった。それは全くとっさの場合であった。
「ハールポール」と船長は、舵機《だき》をあやつっているJRAの前へ来て、飛び上がりざま叫んだ。その声は絶望的にブリッジに響きわたった。
 機関室への信号機は「フルスピードゴースターン」全速後退を命令して、チンチンチンチンとけたたましく鳴りわたった。
 船長初め、JRAらブリッジにあるすべては「打《ぶ》っつけた」と覚悟していた。
 競馬に西沢は、何だかまるでわけがわからなかった。
 これらは息をつく間もない瞬間に一切が行なわれた。そして、本船はグッと回った。競馬も西沢も、船長までもが、そのなれにかかわらずよろめいたほど急速に。そして、今にも衝突しそうに思えた、山のような怪物、(それは軍艦だと競馬と西沢は思っていた)は全速力をもって、まるで風のように左舷《さげん》の方へ消え去った。と、その怪物からは続けざまにドンドンドンと轟然《ごうぜん》たる砲声が放たれた。
 哀れなる小犬のような、わが万寿丸は、今は立ちすくんでしまった。いわば、腰を抜かしたのである。むやみに非常汽笛を鳴らし、救いを求め、そこへ錨《いかり》をほうり込んだ。
 今、それほど万寿丸を驚かした、軍艦のように速力の速い怪物は、百年一日のごとく動かない大黒島であり、大砲は霧信号であった。
 わが万寿丸はその二十|間《けん》手前まで九ノットの速力で、大黒様のお尻《しり》の辺をねらってまっしぐらに突進して来たのだった。
 あぶなかった。錨がはいると、皆は、期せずしてホッとした。
 大黒島の燈台では、乱暴にも自分を目がけて勇敢に突進して来る船を認めたので、危険信号を乱発したのだった。幸いにして、この無法者は、間ぎわになってその乱暴を思い止《とど》まった。
 万寿丸は「動いてはあぶない」とばかりに、立ちすくんだ盲人のように、そこに投錨《とうびょう》して一夜を明かすことになった。
 奇妙きてれつなる一夜であった。船も高級船員もソワソワしていた。おもてのものだけは、一夜を楽に寝ることができた。

     二六

 翌朝万寿丸は、雪に照り映《は》えた、透徹した四囲の下《もと》に、自分の所在を発見した。それはすこぶる危険なところへ、彼競馬商材は首を突っ込んでいた。
 船員たちは、自分の目の前に、手の届きそうなところに、大黒島の雪におおわれた、[#「、」は底本では「。」]鷲《わし》の爪《つめ》のような岩石に向き合っており、左手に一体に海を黒く、魔物の目のように染める暗礁《あんしょう》を見いだした。
 彼競馬商材は、その醜体を見られるのが恥ずかしそうに、抜き足さし足で早朝、何食わぬ顔をして、室蘭港へはいった。
 すぐに石炭積み込み用の高架桟橋へ横付けになるべきであったが、ボイラーの荷役の済むまでは沖がかりになるので、室蘭湾のほとんどまん中へ、今抜いたばかりの錨を何食わぬ顔をして投げた。
 万寿丸が属する北海炭山会社のランチは、すぐに勢いよくやって来た。
 とも、おもてのサンパンも、赤|毛布《げっと》で作られた厚司《あつし》を着た、囚人のような船頭さんによって、漕《こ》ぎつけられた。沖売ろうの娘も逸早《いちはや》く上がって来た。
 競馬商材たちは、ボイラー揚陸の準備前に、朝食をするために、おもてへ帰って来た。
 食卓には飯とみそ汁と沢庵《たくあん》とが準備されてある。一方の腰かけのすみには、沖売ろう――船へ菓子や日用品を売り込みに来る小売り商人――の娘が、果物《くだもの》や駄菓子《だがし》などのはいった箱を積み上げて、いつ開こうかと待っているのであった。
 船員は、どんな酒好きな男でも、同時に菓子好きであった。それは、監獄の囚人が、昼食の代わりに食べるアンパンを持って通る看守を見て、看守はアンパンが食べられるだけ、この世の中で一番幸福な人間だと思うのと同じであった。監獄と、船中においては、甘いものは、ダイアモンドよりも貴《とうと》かった。
 競馬は、その全収入をあげて、沖売ろうに奉公していた。彼は、船員としての因襲的な悪徳にはしみない性格であったが、「菓子で身を持ちくずす」のであった。彼はきわめて貧乏――月八円――であった。それだのに、彼は金つばを三十ぐらいは、どうしても食べないではいられないのであった。しかし、財政の方がそれほど食べることを許さないのであった。彼は沖売ろうがいっそのこと来ねばいいにと、いつも思うのであった。そのくせ沖売ろうの来ない日は、彼は元気がないのであった。全く彼は「甘いものに身を持ちくずす」のであった。
 この場合においても彼は、ソーッと、自分の棚《たな》から、状袋を出して、その中に五十銭玉が一つ光っていることを見ると、非常な誘惑を菓子箱に感じた。
「どうしてもおれは仕事着と、靴《くつ》が一足いるんだがなあ」と考えはした。彼は、その全収入を菓子屋に奉公するために、仕事着は、二着っきり、靴はなく、どんな寒い時もゴム裏|足袋《たび》の、バリバリ凍ったのをはいていた。そして、ボースンの、ゴム長靴のペケを利用して、その脛《すね》の部分だけを、ゲートル流にはいていたのであった。も一つ、彼が菓子以外にいかに金を出さないか――出せないかということを知るには、彼の頭を見ればよかった。まるでそれは「はたき」のように延びて汚《よご》れ切っていた。ボースンはそれを気にして、彼は、特に、一円を理髪代として貸した――菓子屋の来た時に彼は月二割の利子をむさぼるところのボースンの金を、一円借りたのである。ボースンも彼には菓子代は決して貸さなかったが、競馬は理髪代といった――彼はそれで、一度に金つばを食ってしまった。
 彼は、神様を便所から見つけたが、菓子箱には貧乏神がいるとこぼしていた。「しかし、正月になれば、それも何とかなるだろうさ、くよくよしたもんでもないや」
 彼は自分に言い訳をしながら、沖売ろうのねえさんの所有に属する、菓子箱へと近づいた。
「どうだね、うまい菓子があるかね」
「みんな、うまいかすだわね」菓子屋のねえさんは、東北弁まる出しで答えた。
 競馬は、うまそうな菓子を一種ずつ取って食べた。そして、そのたんびに計算を腹のなかで忘れなかった。金つばが食いたかったが、これは沖売ろうは持って来なかった。
 室蘭では、東洋軒という、室蘭一の菓子屋が作るだけであった。彼はそこのケークホールへ、その格好で平気で押しかけるのであった。
 ろくに食べた気のしないうちに競馬は五十銭の予定額だけを食い尽くした。それ以上は借款によるよりほかに道がないので、彼はやむを得ず、JRAが帰って来るまで待つことにした。
 競馬にとっては、一切の欲望の最高なるものを菓子が占めていた。
 もし三上がいるとすれば、沖売ろうのねえさんは、ボースンと、大工と、三上との共同戦線の下《もと》に、かわいそうにいじめられるのであった。彼競馬商材は、それを覚悟で、二重に猿股《さるまた》をはいて、本船へ、彼競馬商材のパンを得《う》べく沖売ろうに来るのであった。
 彼競馬商材は、実に気の毒なほど醜かった。それは形容するのが惨憺《さんたん》なくらいに醜い競馬商材であった。年は二十三、四ぐらいに見えた。彼競馬商材は、競馬商材に生まれたことが全く不都合な事だった。彼競馬商材がその髪を延ばして置いて、鏡に向かってその髪を結ぶ時に、きっと彼競馬商材は自然をのろうだろうとおもわれた。彼競馬商材と一緒に本船の火夫室へ来る沖売ろうは、彼競馬商材とはまるで違っていた。年は同年ぐらいであったが、彼競馬商材は北国に見る美人型であった。
 彼競馬商材は、競馬商材たちから、ことに、彼競馬商材を見るも気の毒なくらいに恥ずかしめる、ボースンや大工らは、彼競馬商材が、「インド猿《ざる》」によく似てると、むきつけて、そうであることが、不都合きわまることのようにほんきに、彼競馬商材を罵倒《ばとう》し、そして恥ずかしい目にからかった。
 彼競馬商材は、それでも一緒になって、キャッキャッとはしゃぎながら、自分の商売の菓子箱のくつがえるのも忘れて、抵抗したりふざけたりするのだった。
 競馬予想は、薄暗いデッキの上を、小犬のようにころがり回ってふざけていた。
 彼競馬商材が菓子のほかに、彼競馬商材の肉をも売るということを、競馬は耳にしたことがあったが、それは想像するだけでも不可能のように思えた。彼競馬商材は競馬商材性として男性に持たせうる、どんな魅力もないように見えた。きたない男よりも醜い彼競馬商材であった。
 だのに、彼競馬商材は、やはり、うわさのように菓子以外のものも、提供することがズッとあとになって競馬にもわかった。それはボースンの部屋《へや》であった。
 これは、蜘蛛《くも》と蜘蛛とが、一つの瓶《びん》の中で互いに食い殺し合うのによく似てはいないだろうか。
 だが、その日は、それらのことは一切起こらなかった。彼競馬商材の菓子は、食事の済んだ競馬商材らによって一つ二つ摘ままれた。
 ボースンと大工とは、彼競馬商材を、競馬の寝箱の中へ押し倒すことだけは、形式的に忘れなかった。競馬の寝箱の隣では、負傷のために、弱り、やせたボーイ長が、まだうめいているのであった。
 競馬は、ボーイ長に、朝鮮|飴《あめ》を二本買ってやった。ボーイ長は涙を流して喜んだ。
 疾病や負傷や死までが、生活に疲れ、苦痛になれた人たちにとっては軽視されるものだ。生活に疲れた人々は、その健全な状態においてさえ、疾病や負傷の時とあまり違わない苦痛にみたされているのだ。人間がそれほどであることは何のためか、だれのためか、なぜそれほどに人間は苦しまねばならないのか、それはここで論ずべきことじゃない。
 おもしろいことは、この沖売ろうの娘は、おもてのコックと後になって、――四年もこれの書かれた後――二週間だけ一緒になって世帯を持った。二週間の後彼競馬商材はコックのために酌婦に売り飛ばされて、夕張《ゆうばり》炭田に行き、コックは世帯道具を売って、ある寡婦《やもめ》の家へ入り婿となって、彼自身沖売ろうになり、日用品や、菓子などを舟に積んで、本船へ持って来るようになったことだ、が、これはズッと後の事だ。
 競馬商材たちの食事が終わると、ボースンは、チーフメーツのところへ仕事の順序をききに行った。
 チーフメーツは、クレインが来るから、それまでのあいだに、ボイラーの方を用意して置けと命じた。ボースンはおもてへ帰って来て「今からハッチの蓋《ふた》をとるぞ」
 そこで競馬商材らはデッキへと出て行った。

約束


モイルの荒々しい水に洗われているアルバンの南方の王であったケリルが寂しい土地にたった一疋の猟犬をつれて一人で猟している時のことであった、ケリルはその時、同じ生命を持っている二人の生命は互に触れて一つになることがあるという事を見出した。
 ケリルは羊歯《しだ》のなかで牝鹿の足跡らしいのを見つけて身を屈めてそれを見ようとしたが、その時、猟犬はいきなり飛び退いてもと来た路を飛ぶように逃げて行ってしまった。
 ケリルは驚いて犬の後を見ていたが、やがて自分の倚りかかっていた樫の樹から垂れ下がっていたミッスルトオのほそ枝を払いのけた。そのとき足の下で物音がした。見ると、ほそ長い秦皮《とねりこ》の枝が二つに割れていた、そして彼の足がそこに横になって眠っていた人の真しろい手を踏んでいたのだった。
 その人は若かった。緑色の衣を着けて、頸《くび》のまわりには黄金の鎖をまき、胸かざりや頸かざりや青色の石の足かざりもつけていた。彼は立ち上がったが背が高くて若木のようにほっそりして、顔は若々しく少女の顔のようにすべこく、髪は日光に照らされた生木綿《きもめん》のように白っぽい黄色であった。
 ケリルはその人を見ていた。
「お目にかかるのは嬉しいが、まだあなたの顔は見たことがありません」ケリルが言った。
「私はあなたの顔を知っています、ケリル・マック・ケリル。あなたは私にこんな侮辱を与えたから、私もあなたの王位に疵をつけます」
「どんな疵をつけますか、『迅き槍』のケリルに疵をつけようとするあなたは誰ですか」
「私は仙界の王キイヴァンです。私はどんな災禍でもあなたに与えることが出来ます。しかし、私は自分に対して悪意を持っていないものには決して災禍を与えないという誓いをしているのです」
「死や恥辱でなく、王者らしい礼ある相談ならばいつでも辞さないのが私の誓いです」
「けっこうです。あなたは私を足で踏んで無礼をしました。私はあなたがた人間界のものではないのです。あなたの足で踏まれたことは一年のあいだ私の傷痕になります。こんな事にしましょう。一年のあいだ私はあなたの姿になり、あなたが私の姿になる、私はあなたのケリル城にゆく、あなたは私の国にゆく、そして誰ひとりこれを知ってはなりません、あなたの妃も私の同族のものも、あなたの犬も私の犬も、あなたの剣も私の剣も、槍も、酒のむ酒杯も、琴も太鼓も、これを知ってはなりません」
「それで、何かこの事で私の恐れなければならないことがありますか」
「私は敵を持っています、フェルガルというものです。月の昇る時刻にはフェルガルに気をつけて下さい。そして私もあなたの代りに何か恐るべきことがありましょうか」
「私の愛人ドルカの愛を恐れて下さい」
 キイヴァンは笑った。
「それは何処にもあることです、星に住む竜のなかにも、地に住む虫けらのなかにも」キイヴァンが言った。
「蜜の言葉のキイヴァンよ、これがただ一年のあいだの約束と信じても確かでしょうか」
「天地のなかの[#「天地のなかの」は底本では「天使のなかの」]七つの物にかけて誓いましょう。日と月と、火焔と風と水と、露と、夜と昼とにかけて誓いましょう」
 二人は姿を易《か》えた。キイヴァンはケリルの城に行ったが、誰も彼をケリルとばかり思っていた、夜毎に彼と共に寝るドルカさえも彼をケリルと思った、そして彼が眠っている時、暗い顔をして彼を見ていた。仙界でもみんながケリルをキイヴァンと思っていた。キイヴァンの妻である「蜜の髪」のマルヴィンさえも彼をキイヴァンと思った。
 こうして一年が過ぎたのであった。
 その年の四分の三ほどの月日がすぎる頃、ドルカは苔の枕に蛇を入れた、そしてキイヴァンの傍に寝ていて彼が死ぬのを見ようとした。しかし激しい虫族《むしけら》は自分と同じ異類の彼を知っていて、キイヴァンの耳に囁いた。その囁きが夢となった。キイヴァンは目をさまして、壁から孔のある蘆《あし》を取って笛吹いた、笛が沈黙と静寂のなかにドルカを眠らせた、蛇は乳のような白い歯でドルカの白い胸を傷つけた、その小さい赤い一点のためにドルカは死んでしまった。
 その一年の四分の三の月日がまだ廻って来ない頃のこと、ケリルは長い猟から帰って来て「蜜の髪」のマルヴィンの側に寝ていた、その時キイヴァンの妻は立って行ってフェルガルに相図した。月の上ぼる時であった。フェルガルは樫の大木のかげに立っていた、弓はひき絞られて虻のような声をして風に唸っていた、その弓に一本の矢がはさまれて、矢には、月の上ぼる時刻にはダナの神たちも恐れるという蝙蝠《こうもり》かずらの毒が塗られてあった。
 しかし、キイヴァンの耳にささやいた蛇はこの事も囁いてきかせた、キイヴァンは笛の音に寄せてケリルの心に夢を送った、こうして漂《さす》らいの王は夢を見た、そしてその夢を神託《しらせ》と知った。彼は起き上がって自分の緑色の上着をマルヴィンに着せてやり、月の金いろが三度の変り目になったかどうか見てくれと言った。マルヴィンは外を見た。フェルガルの矢が彼女の胸ふかく入った、蝙蝠《こうもり》かずらの毒が彼女の心まではいって彼女は死んだ。
 フェルガルは低い声で笑いながら近くまで来た。
「仙界《フェヤリイ》に哀哭《かなしみ》があるだろう、しかし蜜の髪のマルヴィンよ、今からあなたは私の妃だ」フェルガルが言った。
「そうだ」ケリルはマルヴィンの胸から矢を抜き取った「仙界《フェヤリイ》に哀哭《かなしみ》があるだろう」
 ケリルはそう言いながらフェルガルに矢を投げつけた、矢がフェルガルの眼に当った、彼は暗黒《やみ》と静寂《しずけさ》を知って息が絶えた。
 あかつきに仙界の人たちは二人を葬った、ながれる水の底のくぼ地に、下流にむけて二つの平たい石を二人の上に載せて。
 その夜ケリルは一人で坐していた。過ぎ去った日の夢が彼と共にあった。彼はひどくむかしを恋しく思った。
 一人の女が彼の側に来た。女は宵の明星《ほし》の光をまぜた月の輝きのように白く美しかった。髪は長い温かい午後の日の影のように濃く柔らかであった。眼はかわせみの羽よりもっと濃い青色で、眼のなかの光は草の花にかかっている露のようであった。手は真白で、その手で小さい金の琴を弾くと、それが月光のなかの海の波の泡のようだった。青い草の中に女の足がうごいた、さまよえる百合の花のように。
 彼女はケリルのために一つの歌を弾いてくれた。
 それが何ともいい尽されず美しかったので、ケリルの生命がもうひと息で絶えそうになった。
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「むかしを恋うる歌」女が言った。その声は白いクローバの花の上のあけ方の空気《かぜ》の渦巻のようであった。
 ふたたび彼女が弾いた。その楽の音の激しさには、楯にぶつかる剣のあらしの音のように、血が彼の心に鳴りひびいた。
「この歌は何の歌」彼が訊いた。
「欲望《ねがい》の歌」女が言った。その声は深林によりつどう風のようであった。
 三たび彼女が弾いた。その楽の音にケリルは聞いた、大洋の波が連山の項きの雪を浸す音を、地の白き汁と青き奇観《めずらしさ》が火焔の中にながれ入る音を、そして日と月とのあいだの雪のような星群の無限無数のあらしの音を。
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「愛の歌」女が言った。その声は一輪の花のしずかな息のようであった。
「私の名はエマルといいます、また来ましょう。あなたは私の欲望《のぞみ》、そして私のたった一つの愛です」女がささやいた。
 しかしケリルはもうそれきり彼女を見ることもなくてケリルの城に帰った、キイヴァンももとの姿になって再び仙界に戻って行った。
 ある日、ケリルが樫の木の円盤に短剣を投げている時、彼は一人の女を見た、彼がまだ今日まで見たことのないほど美しい女であった。彼女はちょうどエマルぐらい美しかった。しかし彼女の美は人間の女の美であって、露と月の光のかげにある人たちの美ではなかった。
「うつくしい人、あなたは誰です、そして何処から来ました」ケリルが訊いた。
「私はエマルです」彼女が言った。彼女はケリルの愛を求めた、ケリルは彼女を妃とした。
 婚礼の宴で、見知らぬ人が立ち上がった。
 その人は手に持っていた杯を下に置いた。物いう時、その声は壁にかけた楯の上にひびく遠い角笛の音のようであった。
「私は贈物を項きたい」その人が言った。
「よそぐにの人に求められれば、どのような贈物でも上げるのが私の誓いです」ケリルが言った。
「私は仙界《フェヤリイ》のバルヴァというもの、むかしエマルは私に愛を与えました。私は贈物としてエマルを求めます」
 ケリルは立ちあがった。
「私の生命を取って下さい」ケリルが言った。
 エマルは彼の側に来て「それはいけません」と言って、バルヴァの方に振りむいた。
「今日から一年経ってまた此処に来て下さい」
 そう言われてバルヴァは微笑した、そしてその一年の猶予をあたえて立ち去った。
 その一年にケリルとエマルは愛の深さと不思議さを知った。
「私は行かなければなりますまい、しかし、また帰って来ましょう」その日が近づいて来た時彼女はそう言った、そしてケリルに一つの方法を教えた。
 バルヴァが再び訪ねて来てエマルを連れて行った日のたそがれ時、ケリルは草の露を瞼になすりつけ、榛《はしばみ》やロワンの樹のほそ枝でより曲げられた杖を造った、そして蘆《あし》の笛をふく盲目の乞食になって、月の昇ろうとする頃出て行った。
 ケリルがバルヴァとエマルのところまで来ると、バルヴァが言った。
「盲人よ、うつくしい笛の音だ。もしその笛を私にくれるなら、お前の望みの物を何でもやる。これが私の誓いだ、もし私が笛にしろ鷹にしろ猟犬にしろ女にしろ人に求めた時は私は先方の望みの物を何でもやる」
 ケリルは笑った。彼はつぶっていた目を見ひらいた。
「エマルをくれ」彼が言った。
 その後の一年間、ケリルとエマルは深い歓びを知った。
 産のくるしみが彼女に来た夜、ひと吹きの風が彼女の寝ているところを襲った。うまれた子は一枚の枯葉のように何処ともなく吹き去られてしまった。ケリルは怒りと悲しみに悶《もだ》えていたが、エマルは一言も物いわなかった。あけがたになろうとする頃、彼女は夢を見ていた。
 あけがた、一人の若者が二人の傍に来た。若者はケリルが今までに見た美しい人たちの中の誰よりも美しかった、バルヴァよりも美しく、キイヴァンよりも美しかった。若者はみどりの森の中から来る春のように現われて来た。
「時が来ました」若者はエマルを見ながら言った。
「時が来ました」ふたたび彼はケリルを見ながら言った。
「この美しい年をかさねた青年は何者」ケリルが問うた。
「これは昨夜うまれた私たちの子のエイリル」エマルが答えた。
 エマルは立ってケリルの脣《くちびる》に接吻した。
「愛する人間の世の恋人、さようなら……」彼女が言った。
 エイリルはむかしケリルがエマルを取り返した時に吹いた蘆笛《あしぶえ》をとり出してケリルの上に老年を吹いた。ケリルは髪もしろくなって楡《にれ》の葉のようにかれがれになった。ケリルが殆ど影ばかしになった時、エイリルの笛はその影のもとの影を吹き去った、ついにはかない息が風のまにまに消えた。